
プロ棋士
AIエンジニア
谷合 廣紀
東京大学工学部卒業。現在は同大学院博士課程に在籍し、コンピュータ将棋の開発やゲーム情報学の研究に従事する。将棋はアマ有段者の祖父に教わり、6歳で始める。2020年4月にプロ入りし、2025年7月に五段昇段。著書に『AI解析から読み解く 藤井聡太の選択』(マイナビ出版)、『Pythonで理解する統計解析の基礎』(技術評論社)。
生成AIの急速な普及により、私たちの働き方は劇的な変化を迎えています。しかし、多くの人はAIを用いた「効率化」の段階にとどまっており、AIとの対話を通じて自身の能力を拡張できている人は、まだ少ないのではないでしょうか。
そんな中、AIを「思考を深めるコーチ」としていち早く取り入れ、人間の成長につなげているのが将棋界です。現在、ほとんどのプロ棋士が研究にAIを活用しています。
今回は、プロ棋士でありながらAIエンジニア・研究者としても活動されている谷合廣紀さんにお話を伺いました。谷合さんは大学院でAIの研究を行うほか、自身で開発した将棋ソフトが「世界コンピュータ将棋選手権」で8位に入賞するなど、高いエンジニアリングスキルの持ち主です。
AIに教わり、人間が進化する。他業界の数年先を行く将棋界のメソッドから、エンジニアがこれからの時代を生き抜くための「自己研鑽のヒント」を探ります。
「強くなるにはAIが必須」実力主義が技術導入を加速させた
――現代の将棋界では、多くのプロ棋士が研究にAIを活用されていると伺いました。
谷合:ほぼすべての棋士が、何らかの形でAIを活用しています。将棋AIがプロ棋士に並ぶ強さになったのは2010年代半ばでしたが、当時はまだ心理的な抵抗を持つ棋士も一定数存在しました。
しかし、AIを研究に取り入れている棋士が着実に実力をつけ、結果を残し始めたことで状況は一変しました。「強くなるには研究段階でのAI導入が必須だ」という認識が広まり、今では欠かせないツールとなっています。
活用場面は、大きく2つに分けられます。1つは序盤の研究です。将棋の初手から30手目あたりまでは局面の再現性が非常に高いため、「この検討局面でAIは何を推奨しているのか」を調べ、知識として落とし込んでいくことが重要になります。
2つ目の活用法は、対局後の振り返りです。自分が指した一局をAIに解析させ、自身の思考とAIの判断を照らし合わせます。「自分はこう考えていたけれど、AIは別の手を最善と見ていた」といった差分を見つけて、その理由を深掘りする。そうしてAIの視点を取り入れることで、少しずつ自分自身の能力を伸ばしていく流れです。
――谷合さんご自身は、AIを研究に取り入れることに抵抗はありませんでしたか?
谷合:私の場合、もともとコンピュータが好きだったこともあり、AIへの抵抗はありませんでした。導入したのは2015年頃でしょうか。高性能な将棋ソフトが無料で公開され、多くの方々が手軽に扱えるようになった時期です。
私以外の若手棋士も、AIをすんなり受け入れたタイプが多いように思います。私を含め、幼い頃からスマートフォンやパソコンでゲームに親しんできた世代は、将棋を一種の「ゲーム」や「競技」として捉える傾向が強いです。「強くなるために有効なツールがあるのなら、積極的に使えばいい」という合理的な考え方が根底にあるのだと思います。

一方、ベテランの先生方の多くは、将棋を「伝統文化」や「道」として捉えていらっしゃいます。そこでは人間同士のやり取りや情緒的な側面が重んじられるため、AIの介在を歓迎しない空気がありました。これまでの歴史で人間が積み上げてきたものを大事にしたい、という考え方ですね。
もちろん、どちらが正しいとか間違っているというわけではありません。これまでその人が接してきた文化や価値観によって、新しい技術に触れた際の受け止め方が異なる、という話だと思っています。
技術の急速な進歩とどう向き合うか。AI全盛時代の生存戦略
――将棋の世界では、AIが斬新な戦法や指し手を次々に生み出し、それを人間が採用するケースも増えていると聞きます。一方、ITエンジニアの世界でも生成AIに関連するツールや技術が次々に登場していますが、私たちはこの潮流とどう向き合うべきでしょうか?
谷合:確かに、最近はAIエージェントをはじめ、周辺ツールも驚くほどのスピードで進化していますよね。私自身もエンジニアとして日常的にプログラミングをしますが、現在は多くの工程でClaude Codeなどに指示を出しており、自分自身でゼロからコードを書くことはほぼありません。
結論からいえば、まずは抵抗なく「新しいツールや技術をどんどん使ってみる」という姿勢が、これからの時代を生き抜くコツなのかなと思っています。特定のツールが普及するのには理由があります。多くの場合、それは「圧倒的に成果を出せるから」です。やはり、最先端のツールを積極的に試している人ほど作業効率が高く、結果として質の高いシステムを構築できている印象があります。
食わず嫌いをせず、取り入れられるものは柔軟に取り入れていく。これはキャリアにおける生存戦略としても重要です。ただ、一方で「あえて主流とは違うものを選ぶ」という、ある種の信念を持った選択が有効になるケースもあると考えています。
――「あえて違うものを選ぶ」ですか。たとえば、谷合さん自身がそうした選択をすることはありますか?
谷合:私が将棋でよく採用している「振り飛車」という戦法は、プロの間では採用者が少ないマイナーな戦法です。そして、AIは振り飛車に対して低い評価値を出す傾向にあります。
しかし、AIが推奨する戦法だけを追求していると、必然的に全員の指し手が似通ってしまいます。特定の戦法が「多数派」になると、そこには明確なデメリットが生じます。全員が同じ形を研究するため、それ以外のマイナーな戦法への対策がおろそかになっていくのです。
確かにAIの評価値の上では、振り飛車は数パーセントほど不利かもしれません(※)。しかし、実戦を指すのは人間です。相手の対策が薄い領域で、自分だけが経験値と深い研究を持っていれば、数パーセントほどの評価値の差は容易に逆転します。
※AIは、局面の優劣を示す「評価値」をパーセンテージで算出する。現代のAIは振り飛車を低く評価する傾向があるため、戦法を選択しただけでもAIの評価値が数パーセントほど下がるケースが多い。
最先端の戦型で戦い続けることは、終わりのない「最新研究の勝負」に身を投じることを意味します。常に知識をアップデートし続けなければならず、わずかな記憶違いが致命傷になる過酷な世界です。
それに比べると、振り飛車は多少のミスを許容できるというか、独自の戦い方が可能です。あえてAIの主流から外れることで、研究の負荷をコントロールしつつ、自分の得意な土俵で戦うことができます。AI研究が全盛だからこそ、あえてレッドオーシャンを避ける選択肢も有効なのだと思っています。

一生変わらない基礎。現代だからこそ問われる「コンピュータサイエンスの素養」
――コーディングエージェントなどのツールを使う際、人間側に「良い設計とは何か」という判断基準がなければ、AIが出力したコードを適切にレビューすることは難しいです。棋士が過去の棋譜や定跡書から「手の善し悪し」を学ぶように、エンジニアが判断力を養うためには何を学ぶべきでしょうか?
谷合:エンジニアにとっても、やはり「先人たちの知恵」に触れることは有効だと思います。具体的には、GitHub上で高く評価されているオープンソースプロジェクトを徹底的に参考にするなどです。
私自身、コーディングエージェントにコードを書かせるときは、まず実現したいものと構造が似ている高品質なプロジェクトを探してきます。それをクローンして構造を読み解いた上で、AIに対して「このプロジェクトのような構成で、こうしたベストプラクティスに則って書いてほしい」と指示を出すことが多いです。
そうしたガードレールを敷いておかないと、AIが生成するコードによってプロジェクトの構造はどんどん無秩序化してしまいます。AIは明確な指針を与えられることで、初めてその真価を発揮する側面があります。
――現代の若手は、学習の初期段階からAIツールが存在する環境にいます。かつての棋士やエンジニアが経験してきた「自分の頭で必死に考える」というプロセスをスキップできてしまう懸念について、お考えはありますか?
谷合:そこは、将棋とプログラミングの大きな違いが現れる部分かもしれません。将棋が幸運なのは、研究にどれだけAIを使おうとも「実際の対局中はAIの介入が一切許されない」というルールがあることです。勝負の現場では、自分の頭だけで考え抜かなければなりません。そのため、思考力や判断力が必ず鍛えられる構造になっています。
しかし、プログラミングは実務の場でもAIを使い続けることができます。ゼロから自力でコーディングする能力を鍛えようと思っても、若い世代はなかなか機会を得られないかもしれません。正直にいえば、私も「AIが普及する前に、自力でプログラミングの基礎を学んでおいて本当によかった」と感じています。
――そうした環境の中で、若手エンジニアは何をトレーニングすべきでしょうか?
谷合:技術の進歩が早いからこそ、普遍的で今後も変わらない「コンピュータサイエンスの基礎」を学ぶべきだと思います。コンピュータがどう動いているのか、どのアルゴリズムを選択するのが最適なのかといった知識を持っていれば、AIによる提案の妥当性を判断できます。基礎的なレイヤーを学んでおくことは、AI時代においてもエンジニアにとって強い武器になるはずです。
AI普及の先にある未来。環境格差をテクノロジーが埋める
――今回のインタビューの総括を伺います。谷合さんは、テクノロジーの力を借りて人間が成長することの意義を、どう捉えていらっしゃいますか?
谷合:重要なのは、環境による格差が縮まり、人間全体のベースラインが上がることだと思います。
将棋界の例がわかりやすいのですが、何十年も前はプロが指した棋譜を調べるだけでも一苦労でした。新聞を購読するか、将棋会館に足を運んでコピーを取るしかありませんでした。それがインターネットの普及によってWeb上で誰でも閲覧できるようになり、さらにアプリを使えばどこに住んでいても対局が可能になりました。その結果、将棋界全体のレベルが底上げされたのです。
次に来たのがAIの登場です。これにより、誰もが高水準の学習を行えるようになり、知識の格差が解消されました。手軽に学べる環境が整ったことで、さらに全体のレベルが上がっていったという経緯があります。
将棋に限らず、現在の汎用的なAIについても同じことがいえます。たとえば大学に通っていなくても、ChatGPTなどのAIに問いかければ専門的な知識を学べますよね。あらゆる人に平等な学習機会が与えられ、人間全体の知識レベルが底上げされています。
また、コーディングエージェントの出現もそうですが、開発効率化が目に見えて進んでいます。人間の仕事がより効率的になっているのは間違いないでしょう。

――効率化が進んだ先で、人間には何が残るのでしょうか?
谷合:より「本質的な部分」にフォーカスできるようになる、ということだと思います。これまでは「良いアイデアがあっても、実装スキルが足りないから実現できない」と諦めていたことが、今はAIの助けを借りれば形にできてしまう。
AIによって知識が補填され、作業が効率化されたことで、最終的には「アイデアを出せば、すぐに具現化できる」という状態になりました。かつての将棋界と同じように、置かれた環境による格差はなくなっていくはずです。それこそが、AIを活用することの大きな意義だと考えています。
取材:中薗昴、池田恵実、鹿野水月
執筆:中薗昴
編集:池田恵実
撮影:山辺恵美子
