【後編】模倣と洗練の天才。「WeChatの父」アレン・ジャンが成し遂げた中国最大のメッセンジャーアプリの躍進

2022年7月7日

ITジャーナリスト

牧野 武文(まきの たけふみ)

生活とテクノロジー、ビジネスの関係を考えるITジャーナリスト、中国テックウォッチャー。著書に「Googleの正体」(マイコミ新書)、「任天堂ノスタルジー・横井軍平とその時代」(角川新書)など。

中国で名前のよく知られた技術者は多くいる。バイドゥ、テンセント、バイトダンス、シャオミ、DJIなど近年成功を収めたテック企業の多くもその創業者がITエンジニア出身だ。プロダクトをつくれる人が、ビジネススキルの高い力を借りて企業を経営しているから中国のテック企業は強い。

その中でぜひ皆さんに紹介したいのが、テンセントの初期メンバーであり、テンセントの成長の鍵となったメッセンジャーアプリ「WeChat」の開発者アレン・ジャン(Allen Zhang/張小龍)だ。成功例を模倣しユーザーの使われ方をつぶさに観察したうえで、改善と洗練をさせていく。正攻法こそが、アレン・ジャンがWeChatを育てたコツだった。

※本記事は前後篇に分けてお届けしております。前編では、アレン・ジャンの指揮のもと、すでに国民的なプロダクトを擁しているテンセントはなぜWeChatの開発に踏み切ったのかを解説した。後編では、QR決済を中国に普及させた経緯と、アリババという最強の敵を相手にWeChatが見せた健闘ぶりを届ける。

自然発生的に始まったQRコード決済

2013年、WeChatにとっても中国社会にとっても重要な機能が追加された。これもアレン・ジャンがユーザーたちの使い方を観察してから生まれた機能だ。

QQにはもともと「QQコイン」というアプリ内で使用できるポイント通貨があった。銀行振込などで購入し、有料のゲームやアイテム、コンテンツを購入するためのものだ。また、このQQコインは個人間で交換したり、気に入ったコンテンツに投げ銭したりすることもできて、機能がリリースされてすぐに動画や写真、文章を発表して投げ銭を稼ぐ人たちが登場した。

QQと同じように、WeChatの中でも「財付通(ツァイフゥトン)」と呼ばれるポイント通貨を個人間で送れる仕組みが整った。対面で手軽にアカウント追加できる特徴を活かして、この機能を使って、巷では店の電子決済をする人たちが現れたのだ。お店に行って商品を購入し、店主の同意があれば、財付通のポイントで支払うこともできる。まず、店主が自分のWeChatアカウントのQRコードを表示して、来店客がそれをスキャンし、友人登録をする。あとはメッセージに、必要なポイントを添付して送ればいいだけだ。おそらく当初は、小銭がない、釣り銭がないというようなシーンで使われ始めたのではないかと思われる。

この「勝手に電子決済」の優れた点は、スマホさえあれば利用できて、レジや専用の決済端末などの設備が必要ないことだ。このような決済方法が頻繁に使われるようになってから、自分のQRコードを表示するのが面倒になった店主は、QRコードを紙に印刷して店の中に貼るようになった。アレン・ジャンは、このような動きを見逃さず、この「勝手に電子決済」を機能として整え、使いやすくし、2013年のバージョン5.0.0で、「微信支付(WeChatペイ)」の機能を追加した。

▲店舗などで対面決済ができるWeChatペイ。QRコード決済は、アリババとテンセントが競い合うように推進をし、中国の消費社会を激変させた

ちなみに、この動きを見逃さなかったのは、アレン・ジャンだけではなかった。テンセントのライバルであるアリババは、自社のEC「淘宝網(タオバオ)」の中で、いま日本の決済サービスでも使われている電子決済「アリペイ」を導入していた。しかし、当時はあくまでもECの決済専用で、街中の店舗での利用はできなかった。アリババは、テンセントの動きを察知して、アリペイを街中の対面決済もできるように拡張をし、WeChatペイよりも早く街中の対面決済を実現した。

そして、「余額宝(ユアバオ)」と呼ばれる画期的なサービスを始め、一気に利用者を拡大した。これはチャージした金額を国債などに自動投資ができるという、簡易投資信託サービスで、アリババが資金をまとめて一括投資をするため、利回りが最盛期には6%を超えるなど、人気を集めた。しかも引き出しは24時間いつでも0.01元単位でできる。財布の奥のポケットに入れておくだけでお金が増える。これがアリペイのキラーサービスとなった。

アリペイに勝つために。「お年玉送金」機能を追加

アリペイの躍進で、アレン・ジャンはユアバオに対抗できるサービスを考案しなければならなくなった。WeChatの強みは、SNSとして培ったユーザーネットワークを活かして個人間での送金がしやすいということだ。アリペイは、本来が電子決済ツールであるため、構造が「店舗と消費者」になっていて、消費者間での送金はできるものの操作は複雑だ。この個人間送金のしやすさを活かした機能を開発すればアリペイに対抗することができる。

春節の前日の大晦日には午後8時から国営放送で「春節聯歓晩会(春晩)」が放送される。歌、踊り、コントなどがあるバラエティショーで、高い視聴率を誇ることから中国版紅白歌合戦とも呼ばれる。テンセントはこの番組で、「お年玉」という新機能を一気に中国中に広めた。

サービスの根幹はWeChatの送金機能だが、画面に美しいポチ袋の画像が表示され、開けて見るまでいくら入っているかわからないというくじ的な要素もある。送る方は、指定範囲で金額に変化をつける設定をすることもできる。2014年の春晩では、スポンサー企業がこの機能を使って、テレビ視聴者に対して大量のお年玉を配った。視聴者はテレビの前でスマホを出して、番組内で紹介される操作に従うと、お年玉がもらえる。これが話題になり、500万人が利用し、1600万件のお年玉が送られた。翌2015年の春晩でも同じ企画が行われ、2000万人が利用し、10億件のお年玉が送られた。

▲WeChat内の「お年玉」機能。美しい画像タグとして送られ、タップすると金額がわかり、自分のウォレットに追加をされる。画像は2022年ディオールが自身の公式アカウントでリリースしているお年玉のパッケージ

これにより、WeChatペイは、アリペイの利用者数に肩を並べるようになり、以降、アリペイとWeChatペイは互いに競いながら、中国の電子決済市場を牽引していくことになる。

実はアリババは、この紅包の計画を事前に察知していたと言われる。そのため、アリババ側も同様の機能開発を始めたが、SNSの構造を持ち合わせていないアリペイでは、どうやっても手順が複雑なものとなり、結果的に断念したという。

ミニプログラムで中国の小売業界の変革を起こす

2017年のバージョン6.5.2では、中国の小売ビジネスを激変させただけでなく、ネットの世界をもパラダイムシフトさせるミニプログラムの機能が登場した。

この頃にはすでにiOS、Androidのネイティブアプリが広く使われており、企業はウェブサイトよりも、アプリを消費者とのタッチポイントとして意識をするようになり、「モバイルファースト」という言葉が流行していた。そんな中アレン・ジャンは、ネイティブアプリの問題点に気づき、いち早く「脱アプリ化」を進めた。

ミニプログラムというのは、WeChatの中で立ち上がる小さなプログラムのことだ。たとえば、ケンタッキーフライドチキンのモバイルオーダーしたいのであれば、WeChatの中で「ケンタッキー」と検索すると、ケンタッキーのミニプログラムが見つかる。これを開くと、アプリと変わらない画面が表示され、商品の注文ができる。使い勝手はアプリとほぼ同じだ。

▲ケンタッキーのミニプログラム。機能としてはアプリと何も変わらず、多くの場合、開いただけで自動的に位置情報を読み取り、近隣の店舗のミニプログラム画面が自動的に表示される

このミニプログラムの開発言語は「WXML/WXSS/Javascript」の3つ。これは実は「HTML/CSS/Javascript」のテンセントカスタマイズ版だ。つまり、ミニプログラムの実態はウェブアプリケーションであるため、ウェブ開発の経験者であればすぐに慣れることができる。

これにより開発期間、予算がアプリに比べて大きく軽減された。6人チームで約2ヶ月程度で、、開発費用は24万元(約460万円)と、これまでのネイティブアプリの半分程度だという。しかもネイティブアプリの場合は、開発そのものはひとつの環境で行ったとしても、ビルドはiOSとAndroidの両方で行わなければならない。テストやメンテナンスのことを考えると、ミニプログラムの方が圧倒的に運用コストが低い。

さらに消費者にとってもミニプログラムは圧倒的に使いやすい。ケンタッキーのモバイルオーダーをネイティブアプリから利用する場合、

  • 1)ケンタッキーアプリをダウンロード、インストール
    2)アカウント作成、認証
    3)クレジットカードなど決済方法の登録

という手順が必要になる。

ところが、ミニプログラムの場合、このような手順がすべて不要になる。実質WeChatアプリ内に立ち上がるウェブアプリケーションであるため、アプリのダウンロードは必要がない。アカウントは自動的にWeChatアカウントが流用される。決済方法は自動的にWeChatペイが設定される。つまり、ケンタッキーに行って、席に座ってからでも、ミニプログラムを起動してモバイルオーダーをすることができるのだ。

さらに、このミニプログラムの検索方法には、「付近のミニプログラム」という検索方法が用意されている。店舗の位置情報が設定されていて、近所に店舗があるチェーンのミニプログラム一覧が表示される。これにより、簡単に目の前の店のミニプログラムが見つかる。

WeChatのアプリがスマホに入っていれば、ユーザーの事前準備が不要なため、初めての店でも使ってみる人が増えるということだ。企業側から見ると、新規顧客の獲得が非常にしやすくなる。この点に気がついたtoC企業は、アプリよりもミニプログラムを重視する「ミニプログラムファースト」の考え方を採用するようになった。

この「ミニプログラム戦略」には、アリペイやバイドゥ、TikTokなどの中国企業が追従しただけでなく、日本でもLINEミニアプリ、PayPayミニアプリなど、海外ではアップルのiOSのAppClipsなどが追従をしている。

2020年のデータでは、WeChatのミニプログラムは380万種類以上があり、月間アクティブユーザー数は8.3億人、1日の平均利用時間は20分。動画や音楽、ゲームといった長時間使うものはアプリだが、モバイルオーダー、地下鉄の乗車コード表示、タクシー配車、フードデリバリーの注文などの生活サービス系の操作はミニプグラムを使うのが一般的になっている。中国ではアプリがメインの時代はもう終わっている。

toB企業の企業活動もWeChatの中で完結できる時代

さらに、TikTokは中国でECプラットフォームとしても存在感を増してきたら、2020年にWeChatも「WeChatチャンネルズ」という機能を追加した。これは15秒程度のショートムービーをスマホで撮影して投稿できる機能で、形としては抖音の真似だった。

▲WeChatチャネルズはショートムービーを配信するだけでなく、アプリ内に決済機能が備え付けられているため、商品のEC販売もできるようになっている

しかし、これがWeChatの中の一機能であるということが、ビジネス価値を高いものにしている。企業は、WeChatの中だけで、新規顧客の獲得から管理までができるようになった。一般的には次のような手順だ。

  • 1)WeChatチャネルズに商品紹介のショートムービーを配信し、新規顧客を獲得する
    2)新規顧客に自社の公式アカウントに登録してもらうように誘導する
    3)公式アカウントで、商品情報やキャンペーン情報を配信する
    4)顧客はこの商品情報などをSNSを通じて友人知人に拡散をする
    5)ミニプログラムなどを利用して、商品やサービスを販売する
    6)アフターサポートは公式アカウントで行う

つまり、消費者向け企業の顧客向け企業活動のほとんどがWeChatの中で完結できるようになっているのだ。

▲マック(左)とケンタッキー(右)のWeChat内に開設されている公式アカウント。チャット画面だけでなく、情報発信やショートムービーなどの発信などもできるようになっている

まとめ

アレン・ジャンが多くのITエンジニアの尊敬を集める理由は、独創の天才ではなく、模倣から入ってそれを洗練させる手法を得意としているからだ。独創というのは誰にでもできることではなく、天才ですらその独創性を発揮できるのは一生に一度か二度程度だと言われている。しかし、アレン・ジャンは模倣から入って、それを粘り強く洗練させ、最後には彼のオリジナルとしか思えないものに仕上げる。

「アレン・ジャンの手法であれば、自分にもできるかもしれない」と多くのエンジニアが感じるが、実際にやってみると、その難易度の高さを思い知ることになる。

WeChatの誕生から11年、現在でもまだまだ成長中だ。現在51歳になったアレン・ジャンは今でも現場で開発チームを率いている。多くの人から「なぜテンセントを離職して起業しないのか」「引退して生活を楽しむつもりはないのか」と尋ねられる。しかし、アレン・ジャンは現場から離れようとしない。70歳になっても、80歳になっても、開発に関われることこそ、ITエンジニアとしての幸せだと考えているのかもしれない。アレン・ジャンはその功績だけでなく、生き方の面でも多くの人から尊敬されている。

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