2022年6月22日
株式会社アトラクタ Founder兼CTO/アジャイルコーチ
吉羽 龍太郎
1973年生まれ。野村総合研究所、Amazon Web Servicesなどを経て、2016年1月から現職。アジャイル開発、DevOps、クラウドコンピューティング、組織開発を中心としたコンサルティングやトレーニングを専門とする。著書に『SCRUM BOOT CAMP THE BOOK』(翔泳社)、訳書に『チームトポロジー』(日本能率協会マネジメントセンター)、『スクラム実践者が知るべき97のこと』『プロダクトマネジメント』『みんなでアジャイル』『レガシーコードからの脱却』『カンバン仕事術』(オライリー・ジャパン)、『ジョイ・インク』(翔泳社)などがある。
海外の最新技術情報をいち早く入手したいのであれば、Webメディアやソーシャルネットワークの活用は欠かせません。しかし情報の質や精度はさまざまで、断片的な情報から得られる学びは限られています。その点、執筆者をはじめ編集者や翻訳家らの厳しいチェックを受けて世に出る技術書は、海外の最新技術を体系的に学ぶのに適したメディアと言えるでしょう。今回はこれまで数多くの技術書の翻訳を手掛けてきた吉羽龍太郎さんに、知られざる技術書翻訳の舞台裏について話を聞きました。
2003年頃ですね。自分はその当時からアジャイル開発を実践していましたが、日本で取り組んでいる人はさほど多くなかったため日本語の情報が限られており、海外のブログや情報サイトが頼りでした。そこで、多くの人に知ってほしいトピックスやイシューを見つけては著者から掲載許可を取りつけ、翻訳して自分のブログに載せるようになったんです。それが翻訳に携わるきっかけでした。
本格的に技術書籍の翻訳に携わるようになったのは2012年以降ですね。初めて訳した書籍は『How to Change the World』という同人誌的な冊子。商業出版物だと、2013年に共訳で出版した『Software in 30 Days』が最初です。それ以降、毎年1〜2冊くらいのペースで翻訳しています。
そうですね。自分たちが運営している株式会社アトラクタはまだ規模が小さいので、お客様にサービスを届けるだけで精一杯。営業活動に費やせるリソースは限られています。訳したり書いたりした本や記事を読まれた方からお問い合わせをいただくケースもあるので、営業活動やマーケティングにいい影響があるのは確かです。
原著を一通り読んで、内容に賛同できるかどうかが基準です。出版社からお声がけいただいても、共感できない内容や興味の持てないテーマ、得意分野ではない場合はほかの方にご依頼いただくようにお伝えするケースもあります。
本の厚さにもよりますが、一冊の技術書の文字数はおおむね10万ワードほど。それをわかりやすい日本語に訳すのには多大な労力が必要です。私は同じ時間を費やすなら自分の得意な分野で多くの人の役に立ちたいと思うので、あくまでも原著の内容で判断しています。逆にどうしても紹介したい本であれば、自分で企画書を書き出版社に提案することもあります。
譲れないこだわりを一つ挙げるなら、「和訳した文章の質」だと答えます。常にみんなが理解しやすい自然な日本語表現を心がけているからです。海外の書籍には、日本語への言い換えが難しい表現が多く出てきます。さらに、最新の技術書となると、馴染みの薄い技術用語が頻出することもあります。それを吟味せずに訳すとすると、不自然な日本語になりがちです。商品として流通させる以上は品質へのこだわり、とくに日本語に対するこだわりは人一倍あるほうだと思います。
この本を読んでくれる読者にとって、最もわかりやすい訳文はなにか、その言葉選びにいつも悩まされますね。外資系企業などでよく使われる「Alignment(アラインメント)」という言葉があります。要は「足並みをそろえる」という意味なんですが、本のテーマや文脈によってはカタカナ表記のままが良いこともあれば、ほかの表現に言い換えて解釈したほうが良い場合もあります。
先日『チームトポロジー』という本を訳した際も、「ストリームアラインドチーム」や「コンプリケイテッド・サブシステムチーム」といったキーワードをどう扱うかで、最後の最後まで試行錯誤しました。結局は、すでに日本国内でも固有名詞として使われ始めていることからカタカナ表記を選んだのですが、文脈によってはカタカナ表記が常に正しいわけではないので、どう表記するか毎回悩まされます。
たぶん多くの方にとって、翻訳作業は「外国語との格闘」というイメージがあるでしょう。ただ実際は、少しでもわかりやすい和訳を求めて試行錯誤している時間のほうがずっと長いんです。原文の構造が複雑で、著者の主張が複数の解釈が可能な場合であれば、著者に直接連絡を取ることもあります。また、内容の正確性を担保するために、有識者の意見を仰ぐこともあります。その上でさらに何度も繰り返し推敲を重ねる。
そこまで手間暇をかけるのは、正しくない日本語が読者の理解を妨げるようなことがあってはならないと思うからです。もちろん技術書の翻訳なので技術や英語への理解は必要です。ただ、翻訳に携わっている当事者からすれば、日本語の重要性のほうがはるかに上だと感じます。
ありますよ。自分で海外サイトの記事や論文を読んだりするときや、わかりにくい文章に出くわしたときにざっと意味を把握するために使うことはあります。でも、出力された日本語をそのまま使うことはありませんね。翻訳ツールの特徴として、短文はともかく長文の場合、自然な日本語に見せようとするためか、文章や単語の一部をあえて訳さず飛ばしてしまうことがあるんです。過信は禁物ですね。
やはり「翻訳の質」ではないでしょうか。正直、単語の正確さはAIの進歩につれてどんどん向上しますし、今はまだ訳せていない新しい技術用語も、いつかはまかなえるようになります。ただ、正確かつ自然な日本語で翻訳を届けるには、まだまだ人間の手が入らないと難しいと思いますね。
そのため我々翻訳に携わる者は、原文の文意と文脈を損なわないよう、適切な日本語の構造になるように、前後の文章を入れ替えたり、長い文章を分割したりしながら訳していきます。こうした編集作業ができるのはいまのところ人間だけです。一冊まるごと一貫性のある翻訳をしようと思ったら、表記の揺れをなくしたり、語尾に変化をつけて読みやすくしたりする編集作業は欠かせません。AI翻訳ツールは確かに便利ですが、そこまで含めて考えるとまだまだ人間に分があるように思います。
本を読んでくださった方が、SNSで「いい本だった」「訳が良くてわかりやすかった」と、前向きなコメントを残してくれているのを見ると、苦労して訳した甲斐があったと思います。こうした読者からの評価が巡りに巡って次の依頼にもつながるので、自分にとって一番のモチベーションですね。
いいえ。小説やマンガと比較すると、技術書のマーケットはあまり大きくありません。この世界だけで食べていくこと自体非常に難しいし、やろうと思ったら、きっと自分の得意領域とは若干外れるような内容の書籍も手掛けなければならなくなるでしょう。
そもそも私は、一冊の本を翻訳するのに何十回も同じ原稿を読むタイプで、もともと自分が持っていた考えなのか、著者の考えなのか区別がつかなくなってくるくらい入り込むんです。一冊を訳すのに時間がかかりすぎるため、数はこなせないでしょうし、翻訳の質に影響を与えてまで専業にこだわる理由もありません。自分が「これだ!」と思う書籍だけを翻訳するなら、むしろ専業より兼業のほうが、かえって都合がいいんです。
翻訳を通じて「この業界をいまよりよくしたい」という気持ちが、自分の中ではすごく強いんです。職業として向き合っているというより、エンジニアが「多くの人が使うプロダクトをつくりたい」と願うように、自分が示唆を受けた考え方をひとりでも多くの人に知ってもらいたいという気持ちで取り組んでいます。私にとって翻訳は商売というより、あくまでもいい本を世に広めるための手段なんです。
オープンソースコミュニティに貢献するような気持ちで、取り組んでみてはいかがでしょうか。書籍に限らず、ブログや記事、仕様ドキュメントを訳したり、YouTubeの動画に日本語字幕をつけたりするのも立派な貢献です。世の中に広める価値があると思える分野、テーマ、技術、ツールを選んで翻訳すれば、自分自身の勉強にもなりますし、人の役にも立てる。気負いはいりませんし、趣味の延長でも構いませんから、まずは始めてみることをお勧めします。継続すれば思いもよらない展開が待っているかもしれません。
取材・執筆:武田 敏則(グレタケ)
関連記事
人気記事