COCOAも苦戦。コロナ禍でも広まらなかった各国の接触追跡技術。普及が進んだ中国との差はどこにある?

2023年2月8日

ITジャーナリスト

牧野 武文(まきの たけふみ)

生活とテクノロジー、ビジネスの関係を考えるITジャーナリスト、中国テックウォッチャー。著書に「Googleの正体」(マイコミ新書)、「任天堂ノスタルジー・横井軍平とその時代」(角川新書)など。

3年間、世界中を振り回し続けている新型コロナウイルス。この最中に、濃厚接触をスマートフォンのBluetooth(近距離無線通信)機能を使って把握しようという接触追跡テクノロジーが各国で開発された。

しかし、中国の「健康コード」を除いて、広く使われることはなかった。いったいどこに問題があったのだろうか。ここでは中国の「健康コード」、シンガポールの「TraceTogether」、AppleとGoogleの「Contact Tracing」の3つについて、機能や特徴、社会的背景を紹介するとともに、接触追跡技術をどのように普及させていくべきかを考察する。

新型コロナから生まれた接触追跡テクノロジー

この3年以上にわたって、世界中の政府や市民が、小さなウイルスに振り回されてきた。今はもとより、今後重要になってくるのは、この経験を未来に活かすことができるかだ。新型コロナと同様のパンデミックは、いずれ再び起きるかもしれない。そのときに、また振り回されるのではなく、今回の経験を活かしてうまく対処できるだろうか。

テクノロジー視点では、今回のコロナ禍で大きなイノベーションが2つ生まれた。ひとつはmRNAワクチンであり、もうひとつがスマートフォンを活かした接触追跡技術だ。

接触追跡技術は、スマートフォンを利用して、陽性者と濃厚接触をした人を抽出するというもの。中国の「健康コード」、シンガポールの「TraceTogether」、アップルとグーグルが共同開発した「Contact Tracing」の3つが主なものだ。

しかし、中国の健康コードを除いて、他の仕組みはうまく普及したとはいえない。TraceTogertherではシンガポール市民の3割程度、Contact TracingをベースにしたCOCOA(ココア)も日本国民の3割程度の利用にとどまっていると見られている。

普及が進まない理由の1つは、プライバシー侵害への懸念とされている。管理するのは保健当局であるため個人情報流出の不安は少ないが、濃厚接触者になったという状況を保健当局にも把握されたくないと考える人もいる。また、そのような情報の公開・秘匿、どのタイミングで誰に対して公開するかは、自分で判断したいと考える人もいる。さらに、移動履歴が捕捉されるという誤解から利用を避けた人も多かっただろう。

せっかく生まれた接触追跡技術を今後のパンデミックに活かすには、この公共とプライバシーとの衝突を解決しておく必要がある。これが私たちに与えられた宿題の1つだ。

社会生活の維持に不可欠となった中国の「健康コード」

接触追跡技術の中で、最も広く普及したのが中国の「健康コード」だ。陽性者との接触履歴により、リスクを「緑・黄・赤」の3段階で評価する。利用は任意だが、多くの都市で公共交通や公共施設の利用には緑コード(低リスク)の提示が必要とされ、民間の飲食店などの施設でも提示を求めるところが多かったため、利用をしないと事実上の社会活動ができなくなる。そのため、スマホ保有者のほぼ全員が使ったと見られている。

▲いち早く接触追跡技術を運用した中国杭州市の健康コード。利用した携帯電話基地局の履歴から、陽性者との接触リスクを緑、黄色、赤の3色で表示する。

中国は社会主義国であり、公共安全が個人の人権よりも優先されるという思想が根強い。2020年1月23日に湖北省武漢市が封鎖されるという衝撃的な出来事が起き、その2週間後の2月5日から最初の健康コードの運用が始まってから一気に普及した。杭州市余杭区政府が地元のテック企業であるアリババと「感染を拡大せずに社会活動を維持する」方策を協議し、アリババが極めて短期間で健康コードの地域版を開発した。これがすぐに杭州市全体に拡大され、2月13日には浙江省全体に広げられた。さらに2週間ほどで全国にも広がっていった。

他の2つの接触追跡技術が、濃厚接触者を早期に発見して、治療と隔離という医療につなげることで感染拡大を抑え込むことを目的にしているのに対し、中国の健康コードは社会活動を維持することが主目的になっている。そのため、当初はリスクを高く見積もる設計になっていた。社会活動を継続しても感染を広げる恐れのない人を確実に抽出するためだ。

具体的には、携帯電話基地局への接続履歴から、800メートル四方の矩形セルを想定し、陽性者と同じセルに10分以上いるとリスクありと判定され、黄色コードに変化する。ただ、このセルは非常に広いため、実際には接触していない人まで黄色コードや赤コードになってしまう現象が起きる。

例えば、あるマンションで陽性者が出ると、マンションの住人のほぼすべての健康コードが赤に変わるなどの現象が起きた。これは不具合ではなく、意図された設計だ。開発時間が短く、感染に関する科学的知見も少ないために、リスクを大きく見積り、社会活動をしても良い緑コードの人を確実に絞り込むという考え方が採用されたためだ。後に科学的知見が蓄積されていくとともに、セルの大きさを狭め、正確なリスク見積もりに収斂させていくことが最初からの方針だった。市民の間ではさまざまな混乱も生じたが、それよりも開発スピードと社会活動の確実な維持が優先された。中国の社会制度だからこそ、可能になった仕組みだ。

オーストラリアなど各国でも採用されたシンガポールの「TraceToghether」

ゴミのポイ捨てが罰金1000シンガポールドル(約8万円)という高額であることが知られているように、シンガポールも公共が重視される国だ。シンガポール政府が開発した「TraceTogther」は、2020年3月20日にアプリがリリースされた。携帯電話番号をキーにして接触履歴を管理している。濃厚接触者となった場合、保健当局がすぐに電話連絡を取ることができ、素早く検査、治療、隔離に結びつけられるという理由からだ。接触したかどうかは、Bluetoothの近接無線通信を利用して判断をしている。また、プライバシーに配慮して、GPSによる位置情報は取得をしていない。

▲シンガポールのTraceTogetherのオンラインポスター。自分が陽性になった場合はその情報を社会の役に立てられること、自分が濃厚接触者になった場合はすぐに保険当局からの連絡が来て適切な検査、医療が受けられることが強調されている。

しかし、電話番号を捕捉されてしまうところが市民から不信感を持たれ、利用は広がらなかった。そのため、TraceTogetherは2つの大きな改善を行っている。1つは、AppleとGoogleのContact Tracingを参考に匿名化(後述)を行い、保健当局ではランダムIDによる管理を行うようにした。電話番号や身分証情報との紐付けは行われるが、保健当局が連絡を取る必要がなければこのような個人情報にはアクセスされない。

もう1つが、トークン(専用デバイス)を開発し、6月28日から配布を始めたことだ。スマホを持っていない人または接触追跡に使いたくない人が配布対象となった。TraceTogetherアプリと同じように、Bluetoothにより接触履歴情報が記録される。携帯電話との紐付けを行わなければ、そのデバイスの持ち主が誰であるかは分からない。

▲TraceTogetherでは、アプリとトークン(専用デバイス)の2つが用意された。トークンはスマホを持っていない人や使いたくない人のためのもの。スマホとの紐付けを行わなければ個人情報が使われることはない。

TraceTogetherでは、アプリの場合もトークンの場合も接触履歴はデバイスの中だけに保存され、外部に送信されない仕組みになっている。陽性にならなければ、26日以上前の接触履歴は自動的に消去されていく。陽性になった場合は、保健当局から接触履歴データの提供が求められるが、強制ではなく、拒否することも可能だ。

このTraceTogetherのコアともいえるプロトコルは、BlueTraceと名付けられ、オープンソース化された。これを利用して、オーストラリア、ニュージーランド、アラブ首長国連邦なども独自の接触追跡アプリを開発している。

プライバシー保護を徹底した「Contact Tracing」

最もプライバシーに配慮しているのはAppleとGoogleが共同開発した「Contact Tracing」だ。2020年4月10日に技術仕様が公開された。APIの形で公開され、各国の保健当局のみに使用を許諾する方式で、日本もContact Tracingを利用しCOCOAを開発している。

このContact Tracingの最大の特徴は、プライバシーを保護する仕組みが採用されていることだ。Contact Tracingは、ランダムな識別子を生成し、別の誰かと10分間近い距離にいることをBluetoothで感知すると、互いのランダム識別子を交換する。この識別子は15分ごとに変えられる。

もし、誰かが陽性と判定されると、過去14日間にその人により使われたランダム識別子のすべてがサーバーにアップロードされる。他のユーザーは、定期的に陽性者がアップロードした識別子のリストと、自分のスマホに保存されている交換した識別子リストが照合される。もし、一致するものがあった場合は陽性者と濃厚接触をしたというアラートが表示されるという仕組みだ。濃厚接触があったことは分かるものの、その相手が誰であるのか、どこで接触をしたのかは分からない仕組みになっている。

▲AppleとGoogleが共同開発したContactTracingのプライバシー保護の仕組みを解説した資料。接触相手が誰であるかはわからないし、運営側にもわからないというのがポイントだ。

必要とされる善意を後押しする仕組み

この3つの接触追跡テクノロジーは、今後起こり得る感染症に対しても有効だ。いずれのテクノロジーにも「Covid」(新型コロナ)の名前が入っていなく、「健康」「Trace」「Contact」という言葉が使われていることに注意していただきたい。いつのことになるのかは分からないが、再び人類が感染症によるパンデミックに襲われたとき、このテクノロジーが再び使われ、さらに進化をさせるための開発が行われることになる。

そのためには、健康コードは中国の政治体制という特殊事情があったにしても、TraceTogetherとContact Tracingがあまり普及をしなかったという課題は今から議論をしておく必要がある。その理由は「プライバシー侵害に対する不安」という言葉でまとめられがちだが、Contact Tracingではほぼ完璧に個人のプライバシーは守られる仕組みになっている。

プライバシーの問題以外に、普及にあたって最も大きい課題といえるのは、利用を開始するきっかけがつくれるかどうかだ。3つのテクノロジーは社会からの視点で見ると、いずれも「感染拡大を抑止して、社会活動を維持する」ものだが、利用する個人の視点から見ると大きく違っている。

健康コードは利用することにより、(濃厚接触がなければ)従来どおりの社会活動ができることを保証してくれるものだ。いわば、社会活動をするためのパスポートとして機能をした。このような運用であったため、多くの人が利用した。健康コードを使うことによって、仕事に行くことができ生活費も稼げて、スーパーに買い物に行くこともできる。

一方、TraceTogetherとContact Tracingは、利用した人に直接的なメリットはない。自分が感染をしたときに、接触した可能性のある人に確実に知らせることができるというもので、利他行動に比重が置かれている。その利他行動の結果、多くの人が利用をするようになれば、濃厚接触をしたことをいち早く通知してもらえるという利己的なメリットも生まれる構造になっている。

利他行動は、社会の美しい物語の1つだが、それだけではなかなか人の行動を促すことは難しい。日本のCOCOAに関しても、利用をしなかった人は「自分にメリットがなければ使わない」という利己主義者というわけではなく、「入れた方が良いんだろうな」と思いつつも、ネガティブな報道がされたり、周りで使っている人が少ないことから、利用するきっかけを掴めないまま、COCOAのサービスが終了してしまったという人が多いのではないかと思う。多くの人が心の内に持っている善意や公共心の背中を押す仕組みに欠けていた。

テクノロジーはいくら優れていても、その利用を促す社会的な仕組みがなければ広く利用されることはない。優れたテクノロジーをうまく使いこなすために、私たちは何をして、何を変えていけばいいのか。新型コロナは大きな宿題を残してくれた。

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