2024年1月11日
株式会社Carelogy 取締役CTO 兼 医師
河本 直樹
東海大学医学部医学科を2021年4月に卒業。2021年2月に株式会社Carelogy設立、取締役CTOに就任。
株式会社Carelogy 取締役CDO
工藤 貴弘
慶応義塾大学大学院理工学研究科修士課程修了後、大手プラントエンジニアリング会社にITエンジニアとして在籍。2022年10月株式会社Carelogy取締役CDOに就任。「CatsMe!」においてはAIモデルの開発を担当。
今世界各地の愛猫家のあいだで話題のWebアプリ「CatsMe!」(旧:猫の痛み検知AI「CPD」)。「この猫は痛みを感じているのか、そうでないのか」を、猫の顔写真をもとにAIが判別するサービスです。2023年5月のサービスリリースから約4カ月で累計ユーザー数が10万人を超え、現在では47の国と地域にまで広がっています。
このサービスを開発したのは、株式会社Carelogyというスタートアップ。日本大学生物資源科学部獣医学科および「動物のいたみ研究会」と協力して開発しており、判定精度は2023年10月に95%を超えました。
なぜ他の動物ではなく猫だったのか?猫の表情を読み取って痛みの有無を判定するための、AIトレーニングの難しさとは?取締役CTO兼医師の河本直樹さんと取締役CDOの工藤貴弘さんにお話を聞きました。
河本:「CatsMe!」とは、猫の顔写真をアップロードすると、AIが猫の表情を分析し、痛みがあるかどうかを判別するというサービスです。
河本:例えば、飼い猫がキャットタワーから落下してしまった後など、「どこかケガしていないだろうか」と心配になったら、まずはこのサービスに飼い猫の表情をアップロードして、「今は痛がっているのか」を判定してもらう。そこで「痛みあり」という結果が出たら、ケガをしている可能性が高いとして、病院に連れていっていただく。このように、「病院に行ったほうがいいかどうか」を飼い主が判断するのを助けるために開発しました。
痛みの有無の判別には、カナダのモントリオール大学とZoetis社が共同で開発した、Feline Grimace Scale(FGS)という、痛みの評価指数を使っています。この指標は世界小動物獣医師会(WSAVA)でも承認されており、学術的に信頼度の高いものです。
河本:言葉を話せないのは犬も猫も同じですが、猫は感情を隠す生き物と言われていて、痛みを我慢して悟られないようにする傾向があります。「猫は死に際を飼い主に見せない」という逸話もあるように、本当は体調が良くなかったり、痛いところがあったりと弱っていても、そうした姿を見せないようにふるまう動物なんです。
ちょっとこちらの写真をご覧いただけますか。どちらが痛みを抱えた猫なんですが、どっちだと思いますか?
河本:そうですよね。正解は、左が「痛みを感じている猫」。このように、猫の感じている痛みを表情から読み取るのは、ものすごく難しいのです。そのため、飼い主さんも、場合によっては獣医さんも、猫が抱えている痛みを見逃してしまい、大病院に連れていった頃にはもう手遅れ…ということもあるんです。そんな悲しいことが起こらないように、飼い猫の異変を早期に見つけ、病院に行くきっかけをつくれるようなサービスが必要だと思ったんです。
工藤:ちなみに、猫の痛みを見るポイントは大きく耳・目・口元・ヒゲ・頭の位置の5つ。たとえば痛みを感じている猫は、ヒゲが横にピンと伸びて、ヒゲとヒゲの間隔が狭くなる傾向があります。
河本:いえ、実はそうではないんです。私は医師なので、起業当初は、猫ではなく人の健康寿命の増進につながるような事業をしたいと考えていました。というのも、デンマークの田舎に留学したとき、日本における医療IT化の遅れを身をもって感じ、強く危機感を抱いたんです。CEOの崎岡も、前職でヘルスケア部門のコンサルティング業務に携わる中で同様の課題を感じていて、二人で起業を決めました。
ただ、人間用の医療機器を開発するとなると、承認を得るのが難しかったり、データが集まりにくかったり、ベンチャーである我々にはハードルが高め。そんな折、人工知能に特化した展示会に、X線画像にみられる異常をAIで検知するサービスのサンプルをつくって出展したところ、日本大学獣医学科の教授であり「動物のいたみ研究会」委員長の枝村一弥教授から「これ、動物でもできる?」と声をかけていただいたんです。
枝村先生は動物の痛みに関する研究を行っているなかで、疾患の早期発見につながる「痛み検知」の仕組みがない現状に、ずっと大きな課題を感じていたそうです。お話を聞いて、先生の課題感に共感できましたし、動物への取り組みをゆくゆくは人間を対象にした事業に活かせるのではないかと考え、枝村先生と協力して動き出した。これが「CatsMe!」開発の発端です。
河本:枝村先生に出会ったのは2022年の5月で、開発を始めたのは9月くらい、サービスリリースが2023年5月でした。
工藤:AIの学習のための、猫の画像データを集めることが一番大変でした。ウェブでひたすら検索したり、枝村先生が働いている日大動物病院に来院した猫の写真を提供してもらったりと、とにかく地道に集めましたね。
河本:ウェブ検索は日本語や英語だけではなく、中国語やフランス語、ポルトガル語、ロシア語など、あらゆる言語で試しました。
工藤:でも、ネットに公開されている猫の写真は、基本「かわいい猫」ばかりで、痛みを抱えている猫はなかなか見つかりませんでした。
病院の写真でも、例えば事故に遭ってしまった猫など、確実に痛みを抱えているものの顔が欠損していて表情が読み取れず今回のAIの学習には使えないものもあり…。「痛みあり」の学習用の画像集めは特に難航しました。
工藤:リリースまでに集めた画像は約6000枚。それらを枝村先生や、痛みの専門家ともいえる麻酔科の先生が一枚一枚目を通して、FGSをベースに「痛みあり」「痛みなし」を振り分けてもらった上で、学習に利用しました。判定精度はリリース時90%以上を目標にしていましたが、それを実現するための調整も大変でした。
工藤:地道に試行錯誤を繰り返しながら、パラメータを調整していました。
というのも、あらゆる手を尽くして集めた6000枚の画像のうち、「痛みあり」の画像は1000枚程度しかなかったんです。本来は「痛みあり」と「痛みなし」の画像が同じくらいの割合であるのが理想です。「痛みなし」の画像が多いと、「痛みあり」の画像の学習が十分にできず、判定結果はどうしても「痛みなし」に振れやすくなってしまいます。
異常の早期発見、早期受診を促すというサービスの性質上、最も避けなければいけないのは「実際には痛みを抱えているのに、AIが痛みなしと判定した」場合です。そのような誤判定を最低限に抑えるために、AIが「痛みあり」の猫を「痛みなし」と判定したときのペナルティを大きめにつけるなど、工夫しながらパラメータを調整しました。その結果、リリース直前には90%以上の判定精度が出るようになっていました。
河本:完全に内製で開発しました。ただ社員は私たちを含めて4人だけ。フロントエンドもバックエンドも、データベースもユーザー管理も自分たちで開発しています。工藤がコアとなるAI部分を担当し、そのほかの部分は私含めエンジニア未経験の3人が担当しました。
ノーコードツールのBubbleや、AWSが提供しているノーコード・ローコードツールを最大限活用しました。私が担当したフロントエンドは完全にノーコードで開発しています。アプリの構造も当時はそこまで複雑ではなかったので、ノーコードでもなんとか形になりました。
河本:非常に好評で、リリースから4カ月でユーザー数10万人を突破しました。日本国内だけでなく、海外で利用してくれているユーザーもかなり多いですね。海外に向けて積極的にリリースを打ったわけではないものの、フィリピン、台湾、香港、ロシア、ウクライナ、フランス……など47の国と地域にユーザーがいます。
▲2023年6月末には、インドの大手ニュースメディアのYouTubeでも「CatsMe!」が紹介されている
河本:地域による飼い猫の数とユーザー数はある程度相関があるものの、特にユーザー数が多い地域では、その国にいる愛猫家のインフルエンサーに取り上げられたことがきっかけで広がっていったようです。海外でも受け入れられているのは、日本語が分からなくても直観的に使えるサービスだからだと思います。
工藤:あとはニュースですね。新聞や通信社が取り上げてくれたことは大きいです。最近は1つの記事がいろいろなサイトに転載されますし、通信社の記事が翻訳されて各国にシェアされることもあります。サービス自体も当初は日本語と英語にしか対応していませんでしたが、ユーザーが増えた国の言語はどんどん追加しています。
河本:そうですね。猫の健康管理にかける熱量が高い国や地域は、ユーザーが増える勢いが違いましたね。例えば、ヨーロッパでは人間と同様にペットも定期的に健康診断を受けるのが当たり前で、ペットの不調を敏感に気に掛ける傾向があるようです。このような地域にもサービスを届けることができて良かったなと思っています。
工藤:好調な滑り出しの一方、まだまだ課題もあります。たとえば「AIだから信頼できない」という声や「本当に精度が90%もあるのか」と疑う声も届いています。信頼性に関しては、おそらくまだ論文として発表できていないせいもあると思うので、今後、「動物のいたみ研究会」とも協力しながら準備を進めていきます。
河本:大勢のユーザーが使ってくれて、大量のデータが集まるようになったおかげです。多くの人に利用していただくほどデータが収集できて精度が上がり、間違った判定も減るので、ぜひ猫を飼っている方みなさんにご利用いただきたいですね。
工藤:精度が上がったもう一つの要因は、AIモデルの進化です。精度90%では、猫の健康をサポートするサービスとして申し分ないとは言えません。リリース後も、20種類ほどのAIモデルをつくっては試しを繰り返していました。2023年10月にはより速く正確に判定できるモデルへ刷新し、最終的には95%にまで精度を高めることができました。
河本:現状のサービスで判定できる痛みは急性痛だけで、まだ慢性痛には対応していません。それは、基準にしているFGSが急性痛に関してのみ承認されているからです。いずれは慢性痛を判別する指標も出てくると思うので、それを待って対応します。
ただ現状は、慢性痛の判定はできないものの、痛みの連続に気づけるように、「CatsMe!」に会員登録をすると、カレンダーに日々の判定結果を記録できる機能を備えています。痛みありの判定が何日も続くようであれば、「何か慢性的な痛みがあるのではないか?」と想像することもできるでしょう。
工藤:あとは、現状は痛みの有無のみで、どこが痛いかまではわかりません。さまざまなデータを集めて分析することで、痛みの箇所まで特定できる未来もあるかもしれないです。
河本:判定機能の拡充として、現在の「画像を用いた痛みの有無判断」以外もできるように進化させていきたいですね。例えば、写真だけでなく動画も分析できれば、「歩き方がおかしい」と具体的な異変に気づけたり、食事やトイレの回数から体調不良を察知したりと、できることはいろいろあるはず。また、今はユーザーを増やす段階なので無料で機能を提供していますが、近くさまざまな追加機能を盛り込んだ有料版も発表する予定です。
河本:もちろんです。犬やハムスターなどほかの愛玩動物、また、馬・羊・牛など畜産系も検討したいです。やはり私は医師なので、最終的には人間の医療にも生かしていきたいですね。
工藤:人間だと、赤ちゃんや意識のない方、認知症の方など、自分の状況を正しく説明するのが難しい方の治療において、痛みの有無や程度の判定サービスはとくに役に立つだろうと思います。赤ちゃんにはすでに「Apgarスコア」と呼ばれる新生児の健康を評価する指標がありますから、データさえ集まれば精度のよいものをつくれるのではないかと思います。
河本:人間も猫も、医療は早期発見、早期治療が何より大事。まずはこの「CatsMe!」を猫の健康管理に必須となるような便利なサービスにしていきたいです。
取材・執筆:古屋 江美子
撮影:曽川 拓哉
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