【渋川よしき】機械翻訳がある今でも「技術書翻訳をやってみたほうがよい」と思う理由

2023年9月25日

フューチャーアーキテクト株式会社 シニアアーキテクト

渋川 よしき

本田技術研究所、DeNAを経て現職。技術書の執筆や翻訳も手がけ、「実用Go言語」「Real World HTTP」「Goならわかるシステムプログラミング」の執筆、エキスパートPythonプログラミングの翻訳などを行う。2023年5月に翻訳書「ソフトウェア設計のトレードオフと誤り」を、7月に「エキスパートPythonプログラミング改定4版」を上梓。

約20年にわたって、エンジニアとして働きながら技術書の翻訳を手がけてきた渋川よしきさん。翻訳・執筆を手掛けた書籍は20冊以上にも及び、中でも「Real World HTTP」や「エキスパートPythonプログラミング」は、関連分野における定番書となっています。

2023年5月には、オライリー社から「ソフトウェア設計のトレードオフと誤り」を発売しました。この本は、渋川さんが所属するフューチャーアーキテクト社の若手社員10名以上と、共同で翻訳したとのこと。

最近は機械翻訳の精度が上がり、使えるシーンも増え、英語の本もスマホのカメラをかざせばすぐに日本語で読めます。しかし渋川さんは「技術書を人間が翻訳することには、“わかりやすい日本語に直す”以外にも大きな意義がある」と語ります。

技術書翻訳を「ライフワーク」と語る渋川さんに、今回若手社員と一緒に翻訳に取り組んだ理由や、海外と日本での情報の違い、技術書を人が翻訳することの意義についてお話を聞きました。

「一緒に翻訳しませんか?」社内で呼びかけ10名もの若手が集まった

――5月に発売された「『ソフトウェア設計のトレードオフと誤り』は、若手社員と共同で翻訳したそうですね。

渋川:はい。社内に技術ブログの投稿者が集まっているSlackチャンネルがあって、試しにそこで声を掛けたら、約10名が「やりたい」と手を挙げてくれました。集まったメンバーの半数以上が20代で、技術書翻訳に携わるのは初めてだという人がほとんどでしたね。

――約10人の初心者をまとめるのは大変そうな気がしますが‥

渋川:正直まとめ役としては、2~3人くらいの方がやりやすいです。ただ、せっかく手を挙げてくれたので、集まったメンバー全員でやってみようと考えました。

実は、僕が最初に翻訳したスクラム開発の本も、10人近いメンバーが共同で翻訳しているんです。1人で1冊まるごとやりきるのは、翻訳経験者の僕でもしんどい。でも、関わるメンバーが10人いれば、1人あたり1章だけなど細かく分担できます。それくらいの分量であれば、今回のように初心者が通用業務と並行して進めるのにはちょうどいいだろうと考え、全員でやろうと決めました。

――今回はなぜ、翻訳をしたことがない若手に声をかけようと考えたんですか?

渋川:仕事以外のところで業界に貢献することに興味を持って、自分の力でも貢献できると実感してほしかったんです。

僕が翻訳に初めて触れたのも、学生時代に出会った人生の先輩であるテクノロジックアートの長瀬さんが翻訳に慣れていて、「一緒にやってみない?」と声をかけてくれたことでした。それから翻訳や執筆をライフワークとしてずっと続けています。翻訳を通して知識のブラッシュアップができますし、なにより自分の翻訳が多くの同業者に役立ててもらえることが嬉しいです。さらに、本が売れて、多くの人に僕を知ってもらえるきっかけにもなっています。

先輩が声をかけてくれたから、今の自分がある。その恩送り(受けた恩を、本人ではなく他の人に返すこと)として、当時の先輩と同じくらいの年齢になった今、彼と同じように若手に声をかけてみようかなと考えました

――翻訳に取り組むメンバーについて、一定以上の英語力などの参加条件はありましたか?

渋川:条件などは特に設けず、「やりたい」と言ってくれた全員に参加してもらいました。もっとも、フューチャーの若手社員のスキルレベルが平均的に高いおかげで、条件を設けずに済んだのかもしれません。

技術書翻訳は「英語力がネイティブレベルに高くなくてはできない」というイメージを持たれがちですが、そんなことはないと思います。それよりも、原書の内容を理解できるかどうかの方が大事です。

翻訳に取り組むうえで、原著の内容を100%知っている必要はありません。内容の6〜7割の知識を持っていれば、内容を理解しながら読むことはできます。残りの3〜4割は書きながら調べたり、より詳しい人に話を聞いたりすればいい。

この3~4割にあたる知識の中に、普段の情報収集や業務の中ではなかなか得られないくらいハイレベルな内容が含まれることもあります。これを翻訳の過程で得られることが、業務と並行してでも翻訳を手掛ける大きなメリットだと思っています。僕はこのおかげでかなり得をしているので、若い人にとって翻訳は成長の機会になるだろうと考えたことも、今回若手を誘った理由のひとつですね。

業務の合間での翻訳作業は、1年以上の大プロジェクトに

――集団での翻訳作業は、どうやって進めたんですか?

渋川:メンバーそれぞれ興味がある章を選んでもらって、1人1~2章の翻訳を担当してもらいました。業務と並行して進められるちょうどいい労力で割り振れましたね。

翻訳作業はフルリモートで進め、訳しづらいところがあれば個別にアドバイスしました。翻訳してもらった原稿は、Githubにレポジトリをつくって集約。最初に僕が目を通して文体を揃えた上で、翻訳者全員と翻訳者以外の有志の社員を集めてレビューをします。レビューは読書会スタイルで、原稿の気になるところを議論する形式をとっていました。必要に応じて、社内外の専門家に別途原稿を見てもらったりもしていましたね。

――レビューの人数を絞らず、全員で行ったのはなぜですか?

渋川:翻訳した内容のレビューは、メンバー全員の成長につながるからです。

レビューの際、原著にある技術的にハイレベルな内容をどう正しく表現すべきかと議論する機会がよくあるんです。翻訳者だけで答えが出ないときは、翻訳には参加していないもののその分野に深い知識を持っている社員に参加してもらう場合もあります。これは翻訳に参加するメンバー全員にとって「新しい知識に触れて考え、理解を深める機会」となります。

とはいえ、業務と並行して翻訳してレビューもすることになりますから、皆忙しく、事前に原稿を読み込んでもらうのは大きな負担となります。負担軽減のために「最初の30分は原稿を黙読し、その後の30分で議論する」というAmazonの会議スタイルでやりました。ミーティング以外の時間でやるべき宿題を課さなくてよいので、事前に読んでくるよりは参加しやすくなったのではないかと思います。

――翻訳にはどのくらいの期間がかかりましたか?

渋川:1年強くらいでしょうか。メンバーが決まって動き出したのが2021年の冬で、原稿が手を離れたのは2023年の3月くらい。当初の予定では2022年内の発売を目指していたんですが、集団かつ初心者を交えての翻訳は初めてだったこともあって、想定よりも少し伸びてしまいました。

――今回初めて「若手と一緒に集団で1冊の翻訳書をつくる」というプロジェクトを手がけてみて、手ごたえはありましたか?

渋川:翻訳に参加したうちの何人かは「またやりたい」と声を掛けてくれて、嬉しかったですね。また、今回の翻訳に限らず、技術書翻訳や技術ブログなどの技術広報活動に、社内からもどんどん注目が集まっているように感じます。社長が社外向けにプレゼンする際にも、我々の技術広報活動について紹介しているそうです。

フューチャーアーキテクトの仕事は、パートナー企業の経営そのものに関わるような機密性が高い受託型の開発が多いので、具体的な仕事の内容を「自分たちがやりました」と公表しにくい場合もあります。そのため、せっかく社員の技術力が高いのに、それを社外に知ってもらう機会に恵まれませんでした。技術ブログの更新や技術書翻訳をコツコツ続けていれば、社員のスキルの高さを知ってもらう機会につながりますから、取り組み甲斐がありますね。社員にとっても、外部のイベントに登壇するときや、初対面のお客様とお話するときなどに、「この本の翻訳をしました」など話せると絶対プラスになります。

技術書翻訳のような業界貢献ともいえる活動は、会社にとってもメンバーにとっても、ブランディングや成長のためのよいチャンスになる。今回一緒に翻訳した多くの若手メンバーにも、そう感じてもらえるきっかけをつくれたのではと思っています。

変化しつつある国内外の情報格差。日本の情報の質は決して劣っていない

――技術に関する情報は英語圏から発信されることが多く、日本では翻訳書を待つ必要があると考えると、日本での情報収集は英語圏に比べて不利なのでしょうか。

渋川:そう思われがちですが、僕は不利だとは思っていません

「英語圏の方が情報が速く更新されているように見える」というのは否定しません。例えばAWSやGoogle Cloudなどの特定の企業が提供するサービスに関する情報は、「そのサービスを提供する企業から英語で発信される情報」が最も速いです。ただ、それは「その企業が英語圏だから、サービスについての情報も英語で発信されている」というだけで、「英語圏の情報が常に最新である」とまでは言えないと思います。AWSやGoogle Cloudなどは業務で利用する機会が多いサービスだからこそ、それに関する英語の情報を目にする機会も多いでしょう。これが、「英語圏の方が進んでいそう」というイメージにつながっているのかもしれないと思っています。

確かに、過去には英語圏と日本では大きな情報格差がありました。僕が駆け出しだったころは、英語の情報を得たければ、英語を勉強して読めるようになるしかなかったし、インターネット上の情報自体も、いまほど充実していませんでした。

しかし今は、本では得づらい新しい技術についての情報も、本がなくても困らないくらいの網羅性でインターネット上に集まっています。機械翻訳も精度も高まっていて、英語が苦手でも機械翻訳ツールを使えば、海外の情報をすぐにキャッチアップできます

例えば、Next.jsの開発元が用意しているドキュメントは、内容がすごく充実していて、書籍並みの網羅性があります。おそらく、専門のスタッフとテクニカルライターを雇って整備しているんだと思います。すべて英語で書かれていますが、機械翻訳を使えばサクサク読めますよ。

一方で、新入社員や経験が浅い人など、これからIT業界に入る人向けの情報にも、国内外の有利不利はないと思います。そういった方に「これを読んでおけばいいよ」と渡せるような、一定水準の技術情報がまとまっている入門書のような書籍はすでに数多く出版されていて、すぐ手に入りますから。

結果的に、日本と海外とでの情報格差は、現状ではあまりないと思いますね。

――「日本語よりも英語のほうが、情報の質が高く、更新速度も速い」と思い込んでいました。

渋川:情報の質に関しては、海外と日本での差はほぼないと思っています。海外の技術ブログを読んでいても、内容のクオリティは、QiitaやZenなど日本の技術情報投稿サイトと変わらないですよ。日本語でも、例えばGoについて、公式ドキュメントだけでなく開発者ディスカッションまで追いかけるなど、深く調べてまとめた質の高い記事もたくさんありますし、海外の情報にも遜色ないレベルです。

僕は情報の質・速度・アクセスのしやすさは、日本と英語圏ではたいして変わらないと考えているので、「日本にいるエンジニア=不利」ということは、あまりないかなという気がします。まだまだ日本発のOSSや、世界中で誰もが使うようなWebサービスが少ないのは確かですが、だからと言ってエンジニアが萎縮する必要はないです。それどころか、日本でも高い技術力を持つ人や企業はたくさんいるのに、英語で発信しないから、英語圏に伝わっていないこれは非常にもったいないことだと思います。

――先ほど「機械翻訳の精度が上がっている」と話していましたが、それなのになぜ翻訳活動に取り組むんでしょうか。

渋川:機械翻訳は確かに便利で、僕もよく使っています。ただ、それでも人力でやる意味はある。分かりやすい日本語で解説できるという点もありますが、「翻訳をした人が、翻訳の過程で成長できる」ということに、大きな意義があるんです。

原書となる技術書は、その分野のスペシャリストが執筆していますから、極端ですがそれをそのまま日本語に直訳するだけで、一定のレベルのアウトプットにはなります。ただそれだけでは、正しい翻訳ができているか、わかりづらい日本語になっていないかどうかは保障できません。読みやすく、内容も正確で充実している技術書をつくるためには、より詳しい人に教えてもらう、レビューしてもらうプロセスが必要です。

今回も、レビューの際に原稿をみんなで読み、原文と比べながら日本語の表現を磨いたり、原書の出版後にアップデートされた内容を注釈で入れたりと、本書ならではの価値を高めるために工夫を重ねました。こうした磨き上げの中で、新しい知識に触れたり、既知の内容への理解を深めることができ、成長につながるんです。

ライフワークである翻訳を、若い世代にも引き継いでいきたい

――渋川さんはなぜ、20年もエンジニアの仕事と翻訳を両立してこられたのでしょうか。

渋川:単純な楽しさもありますが、働き始める前から翻訳をしているので、習慣として生活に組み込まれているんですよね。僕にとっての翻訳や執筆は、息抜きのゲームとかと同じような位置付けであって、「頑張って続けるもの」ではないんです。

とはいえ翻訳したり本を書いたりするには、どうしてもまとまった時間が必要です。その時間をつくる工夫として、わざと各駅停車の電車に乗り、座って通勤したりしています。ゆっくり座れるし、ある程度まとまった時間が取れるので、原稿を書くのにちょうどいいんです。こうしてうまく時間をつくることで、無理なく続けられています。

――ソフトウェアに関わることは、渋川さんにとっては仕事というだけでなく、趣味でもあるんですね。

渋川:そうかもしれません。学生時代からずっと、ソフトウェアを仕事にしたいと思っていました。当時は今ほどプログラマーの待遇は良くなかったけれど、それでも面白そうだったから、やってみたかったんです。

それに、当時日本に入ってきたばかりだったアジャイルの考え方が、自分の理想の仕事像と近かったんですよね。アジャイルを広める活動をすれば、将来の自分の仕事も楽しくなるんじゃないかと思いました。それが原動力となって、学生時代に関連書籍の翻訳に参加したり、コミュニティ活動に関わったりしていました。新卒で入った自動車会社を辞めたのも、そうした執筆やコミュニティ活動の制限が厳しかったことが一因でしたね。翻訳や執筆を学生時代から続けているので、今となってはやらないと違和感があるくらいです(笑)。

ただ、僕がやっている書籍の翻訳や執筆といった活動はどうしてもハードルが高いので、積極的に若い人を増やしていかないと、取り組む人がどんどん減っていくだろうと危機感を持っています

――技術書翻訳の将来への危機感も、今回若手を誘った理由なんでしょうか?

渋川:そうですね。「自分が執筆活動をしてきてよかったから」という思いだけでなく、「将来こうして翻訳や執筆をする人がいなくなってしまわないように」という思いもありました。

僕が今やるべきことは、僕自身が翻訳・執筆して書籍をつくるだけでなく、若い人にこの活動をつないでいくことでもあると思っています。僕が引退しても技術書の翻訳、執筆活動する人がいて、そうして1人1人が業界の発展に寄与していく世界が続く未来のために、これからも若手メンバーとの翻訳を続けていきたいですね。

取材・執筆:青山 祐輔
撮影:曽川 拓哉

関連記事

人気記事

  • コピーしました

RSS
RSS