2025年6月5日
株式会社キューブ・ソフト オーナー兼代表取締役/プログラマー
津川 知朗
大阪大学大学院博士課程在籍中の2009年に株式会社キューブ・ソフトへ参画。「CubePDF」をはじめとしたフリーソフト群「Cube」シリーズを開発する。2019年8月から同社の経営も担い、2021年3月に正式に代表取締役に就任。かつてMMORPG「ラグナロクオンライン」に熱中し、ゲーム内アイテムの取引価格の相場を調査して公開するサイトを運営していた。
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「CubePDF」という、オープンソースのフリーソフトがあります。Windows上で仮想プリンターとして動作し、多様なアプリケーションから手軽に各種データのPDF変換を可能にするこのソフトは、その使いやすさや日本語処理の安定性などで人気を博してきました。
2010年よりCubePDFを提供しているのは、大阪府豊中市に拠点を置くキューブ・ソフト社。同社エンジニアの津川知朗さんが、開発を一手に担ってきました。他にもPDF編集ソフト「CubePDF Utility」や圧縮・解凍ソフト「CubeICE」など、10種類近くのフリーソフトを開発、公開しています。
同社は現在、津川さん1人が所属し開発者と代表取締役を兼任しています。転機は2019年、それまで経営を担ってきたオーナーが急逝したこと。他に従業員もいない中、自ら経営を引き継いだ津川さんは、当時の状況について、淡々とこう振り返ります。
「会社の預金通帳を見てみると100万円も入っておらず、翌月には資金がショートする見込みでした」
「技術一筋」だった開発者が、いかにして会社を立て直し、「Cube」シリーズの提供を続ける道を切り開いたのか。そもそもなぜ経営を引き継ぎ、そして諦めなかったのか。奮闘の日々について話を聞きました。
――まず、津川さんがCubePDFを開発するようになった経緯を教えてください。
津川:きっかけは、大学院の博士課程時代の縁です。
僕は情報工学を専攻していたのですが、研究があまりうまくいっておらず。どうするべきか悩んでいた2009年のある日、キューブ・ソフト(当時の社名は『フォアアンドモア』)を立ち上げた研究室の先輩から「プログラマーとして手伝ってくれないか」と声をかけられ、誘われるまま入社しました。
入社後すぐ、出資者のひとり(後の同社オーナー)から「あらゆるファイルを、PDFに変換できるツールをつくりたい」と相談を受けました。
どういうことかというと、この会社が目指したビジネスモデルは、「広告」と「バンドルソフト」による収益構造でした。
まず魅力的なフリーソフトを配布し、それに他のソフトをバンドル(同梱)します。次に、バンドルソフトのひとつである「CubeWidget」というアプリを通じて、自社運営のニュースサイト「CubeNews」の最新記事を配信し、ユーザーをCubeNews本体へ誘導します。そしてCubeNewsのサイト上に表示するネットワーク広告で収益を生む。こういったものです。
つまり、バンドルをインストールしてもらう「目玉」として、一定の需要が見込めるPDF変換ソフトの開発を求められたのです。「じゃあ、つくりますか」と引き受けて、開発を始めました。
――そんな簡単につくれるものなのでしょうか?
津川:いいえ、数か月後経つころには、僕は「これ絶対無理だな」と感じていました。当時はいちからコードを書いていたのですが、WordやExcelファイルをはじめとして何種類もの文書形式の解析をし、レイアウトを維持しながらPDF変換を実現するという仕組みは非常に複雑で、ひとりで完成させるのは現実的ではなかった。
それを出資者の方に伝えたら、「どうするんだよ」と切り返されて。「どうするって言われても」と半ばヤケになりながら「じゃあ例えば『仮想プリンター』を使った形式なら、数週間ほどでつくれるかと」と思いつきで提案しました。
当時のWindowsの印刷の仕組みでは、アプリケーションからの印刷命令を、「Graphics Device Interface」という仕組みを通してOSが共通の描画データに変換し、それをプリンタードライバーが処理する形になっていました。さらに、最終的な印刷データを任意のプログラムに引き渡せる仕組みも備わっていたため、この仕組みを利用して印刷データを取得すれば、各ファイル形式を個別に解析するという複雑な作業をせずに、OSから渡される印刷データだけを用いてPDFをつくれる。これなら、僕ひとりでもなんとかなる、と。
「ではそれで頼んだ」とGOサインが出て、「そのファイルがWindows上で『印刷』可能でさえあれば、形式を問わずにPDFに変換できる」ツールとして2010年にCubePDFを開発し、公開しました。
だから、リリース直後から一定の反響をいただいたものの、この通り僕がやったことは何もすごくない。僕ではなく、Windowsの仕組みがすごいんですね。
――とはいえ短期間かつひとりで実装しきったのは、並大抵のことではないと拝察します。その後、津川さんはCubePDFの改良を続けたり、圧縮解凍ツール「CubeICE」など他のフリーソフトも手がけたりした一方で、2019年からは経営まで担っていると聞いています。その経緯をお聞かせください。
津川:僕は開発に専念し、オーナーが経営面を全て管轄していたのですが、そのオーナーが2019年の夏に病気で急逝されたのです。
あまりに突然のことでした。しかし僕を誘った研究室の先輩はすでに社を離れており、他に従業員もいなかったため、ひとまず2019年の8月から僕が経営を引き継ぐことにしました(※1)。
そして会社の預金通帳を見て驚きました。残高が、100万円もなかったからです。
それまで経営にはほぼ関与せず「よくわからないけれど、どうにか会社はお金を稼げているんだろうな」くらいの認識でいたので「あれ、今月の支出だけで100万円を超えるよな? どうするんだこれ」と焦ったものです。翌月には、資金ショートに陥る見込みでした。
――引き継いだ瞬間からそのような危機にあったとは……。どのようにして急場を凌いだのでしょうか?
津川:真っ先に自分自身の給料を止めました。苦肉の策ですが、IT企業なので人件費を抑えれば支出はかなり減る。それで当面の資金ショートは回避できたのですが、「さて、どうしようか」と頭を抱える日々が始まりました。
――なぜそのような厳しい状況下で経営を引き継ごうと思ったのでしょうか。
津川:深く考えたわけではなく、なんとなく「もったいないかな?」と思ったからです。多くのユーザーが使うようになったプロダクトを、ここで終わらせるのは口惜しいな、と。
ただ、収益面でたかをくくっていた部分もあります。CubePDF、CubeICEを含むCubeシリーズは一応、当時でも推計200万人のユーザーを抱えていたので、「このユーザー基盤を生かせばなんとかなるのでは?」くらいの考えでいました。
そうした甘い考えは後々、打ち砕かれていくことになるのですが。
(※1):最終的に、津川さんが全株式を取得し正式に代表取締役に就任したのは2021年3月。
――資金ショート寸前という状況から、具体的にどのように収益改善策に着手したのでしょうか?
津川:まず、経営状況の把握から始めました。改めて調べてみると、キューブ・ソフトは創業以来13期連続の赤字決算が続き、極めて深刻な債務超過に陥っていました。しかも「バンドルソフト」モデルに依存しきっており、直接の収益源はほぼ「Cubeニュース」上のGoogle AdSense広告のみでした。
他にすぐ着手できる策もなかったので、当面はこの広告収益の最大化に注力しました。Google AdSenseの管理画面やGoogle Analyticsのデータとにらめっこし、サーバー側の設定の最適化や、広告表示の調整など、収益を1円でも多くするため試行錯誤しました。
――広告収益改善において特に効果的だった施策は何でしたか?
津川:いろいろと細かい施策を行いましたが、パッと思い浮かぶものはふたつあります。まずは「Internet Explorer」への対応です。
広告まわりのデータ分析の結果、僕はやたらとIEで「Cubeニュース」を閲覧している人が多かったことと、その条件下では広告収益が異常に低くなっていたことに気づきました。
2019年当時、古いOSなどでまだIEをデフォルトブラウザにしているユーザーが多くいらしたのです。しかしIEはすでに各所で非推奨ブラウザになりつつあったので技術的な問題や広告プラットフォーム側の対応縮小などにより広告が正常に表示されなかったり、報酬単価が極端に低かったりするケースが多発していました。
この問題は数年間誰にも気づかれず、累計で数千万円の収益ロスを生んでいた。なのでIEでサイトが表示される際の広告の配信方法を見直したり、別のブラウザで「Cubeニュース」の閲覧を促す仕組みを導入したりしました。
――IEの存在が大きなロスにつながっていた、というのは意外です。
津川:もうひとつはCubeシリーズ各ソフトのダウンロードページにも、広告を設置したことです。多くのユーザーが訪れる場所ですし、エンゲージメント率の高さも相まって広告単価も比較的高いため、ここへの配置で収益の底上げを図ったのです。
こうした策が徐々に実を結び、経営を引き継いでから数か月後の2020年3月には、なんとか初の単月黒字を達成しました。
――ようやく「ひと安心」といったところでしょうか。
津川:はい。しかし、大手を振って喜べるわけではありませんでした。
実のところ、僕は広告に対してネガティブな思いを抱いていたからです。
――広告収益の改善でひとまずの危機を脱した一方、津川さんご自身は、広告に対して良いイメージを抱いていなかったのでしょうか?
津川:はい。特に経営に関わるまでは、いち技術者として抵抗感は強かったです。事業継続のためとはいえ、やはり広告表示はユーザー体験を損なう可能性がありますし、そのためにバンドルソフトがついてくるのも必ずしも喜ばしいことではないでしょう。
なので実をいうと、2019年に経営を引き継いだ当初は「これを機に広告もバンドルウェアも一切なくし、企業からの協賛金などで運営できないか」との甘い夢を思い描いていたんです。
そこで広告収益改善と並行して、いくつかの企業様に「CubePDFに協賛していただけませんか」とお願いしたり、プレゼンテーションして回ったりした時期がありました。
しかしやはり現実は厳しく、どこも「なしのつぶて」状態でお返事をいただけなかったり、冷たくあしらわれたりと、良い感触は得られませんでした。
特に、ある企業の方から「無料で使えるソフトに、誰かがわざわざお金を出すと思うんですか?」と言われたのは今でも忘れられません。ビジネスの観点から見ると、直接的な収益を生まず、ブランドイメージの寄与にどれほど効果を発揮するかも測りづらいフリーソフトには、投資する価値を見出しにくかった、ということなのでしょう。確かにおっしゃる通りではあるのですが……。
一連の試みを経て最終的には心が折れ、結局広告なしでやっていくのは不可能だと痛感させられました。
――そうした理想と現実のギャップに直面し、広告による収益モデルに注力せざるを得ないと判断した、と。
津川:はい。ただ、広告もバンドルも廃止できない以上、せめてできるだけクリーンな体制を取ろうと考えました。具体的には、曖昧な部分もあったバンドルに関するポリシーを明文化し、Webサイト上で公開。同時に、各ソフトにはオプトイン(ユーザーが明確に同意した場合のみバンドルソフトもインストールされる形式)を徹底するようにしました。
――そうして現在に至るまで、広告が収益の主軸となっているのでしょうか?
津川:はい。しかし実をいうと、状況は変わりつつあります。
転機は2020年の半ばごろ、企業所属ユーザーの方から「CubePDFやCubePDF Utility(※2)を有償で提供してくれませんか?」という問い合わせのメールが届いたこと。
最初は戸惑いました。それこそ「無料ソフトに、わざわざお金を払いたい……?」と。
しかし、それをきっかけに法人ユーザーへのヒアリングや調査をしてみると、法人には法人ならではのさまざまな事情やニーズがあることが分かってきたんですね。例えば
「サポートが約束されていない無料ソフトは、社内規定で利用できない」
「有償でいいので、サポートの提供を保証してほしい」
「操作を誤り、バンドルソフトまでインストールしてしまう社員がいる。お金は払うので、バンドルの仕様をどうにかしてほしい」
といったものです。
(※2)CubePDF Utility:ページの分割や結合、順番の変更など、PDF編集ができるソフト。
――かつて寄せられた「無料で使えるソフトに、わざわざ誰がお金を出すのか?」という厳しい声とは裏腹に、協賛とは形は違えど、実際にはそうした企業も存在した?
津川:そこは自分でも「面白い展開になったな」と感じています。
そこで、バンドルソフトを除外し、3営業日以内のサポート対応を確約するとの付加価値をつけた「有償版インストーラー」を、法人向けに年間サブスクリプション形式で提供開始しました。
とはいえ、ソフト自体の仕様は完全に無料版と同じです。サイト上にも、そう明記しています。なのでどれほどの需要があるのか半信半疑でしたが、いざ提供を開始してみると、予想以上に多くの企業様にご契約いただけました。
今では有償版の契約件数が100件以上に達して収益全体の約3割を占めるようになり、経営安定に大きく寄与しております。おかげさまで、2022年にはとうとう累積黒字に転じ「ああ、よかった」と安堵したものです。
――いわば、「安心して使うためにむしろお金を出したい」企業が、何社も存在していたのですね。では不躾な質問ですが、CubePDFを重用している企業が数多く存在する一方で、当初協賛をお願いして回ったときにどこからも真剣に検討してもらえなかったのは、なぜだったのでしょうか。
津川:おそらく僕の見当違いにより、CubePDFに価値を見出してくださる企業様にアプローチできていなかったのだと思います。本当にCubePDFを必要としていたり、実際に使ってくださっていたりするところにお声がけできていなかった。
実は当初、僕は「協賛は、PDFとの関係性が深い業界にお願いするのがいいだろう」とシンプルに考え、主に印刷業界にコンタクトを試みていました。
しかし、実際に有償版を購入してくださっている企業様を詳しく見ていくと、金融系や法律事務所、公共団体まで多種多様な業界の方々がいらっしゃる一方、印刷業はむしろあまり見受けられません。
つまり、「『印刷』そのものを専門的に扱うわけではなく、PDFファイルが業務の中心的な役割を担っているわけでもないが、社内の事務作業や日常的なドキュメント管理などのために補助的にCubePDFを使っている」という企業様が数多くいらっしゃったんですね。
こうしたユーザー層の実情を十分に理解できておらず、アプローチ先が偏ってしまっていました。
――知らず知らずのうちに、多様な企業の事務作業をCubePDFが支え、有償版の潜在的顧客基盤も醸成されていた、と。当初は「『このユーザー基盤を生かせばなんとかなるのでは?』くらいの甘い考えでいた」というお話もありましたが、実際、津川さんの直観は正しかったということでしょうか?
津川:本当に結果論ですけれどね。このようにして「基本的には誰でも無料で使える」という原則を維持しつつ、各企業様の要望やご都合に合わせて有償版をご購入いただく形が実現できたのは、非常にありがたいことだと思っています。
――経営を引き継いだのは「もったいないかな?」との思いが発端でした。一方その後大変な苦労が連続しながらも、開発者として他の企業に転職するでもなく、再建の道を諦めなかった理由は何だったのでしょうか?
津川:まず率直にいうと「今更自分を雇ってくれる会社なんてあるのかな?」という懸念のようなものはありました。博士課程時代からこの会社に入り、就職活動をしたこともなく、他の企業でやっていける強い自信もなかったんです。
次に、経営そのものを「面白い」と感じていたから、というのも大きいです。
どうやら僕には「何かの数値が改善していくのを見るのが大好き」という気質があるようでして。振り返ると、例えばゲームのプレイ時には、どうすれば最も効率的にステータスなどの数値を上げられるか、といったことを延々と計算するのが子どもの頃から好きでした。MMO RPG『ラグナロクオンライン』にどハマりしていたときにも、日々ドロップアイテムを集めては売り、ゲーム内通貨が増えていく過程を心から楽しんでいたものです。
経営面でも、お金儲け自体はそんなに好きではないものの、広告収益が改善したり有償版の契約数が増えたりするのを数字で見るのが面白いと思えた。なので、経営そのものをあまり苦にしなかったというのがあります。
――ある意味でゲームのように「数字を改善する」という点で、経営を楽しんでいるのですね。
津川:そうですね。そして、なんだかんだ「CubePDF」に愛着があるからです。
実は2015年ごろ、Microsoft社が「Windows 10」に「Microsoft Print to PDF」(※3)を標準搭載したため、僕は「もうCubePDFは無用の長物では?」と思ってしまい、1~2年の間アップデートを止めていたことがあったんですよ。
しかし、アップデートを止めている間にもCubePDFのダウンロード数は一向に減らず、むしろ増え続けているような状況でした。カスタマイズ性や、日本語文書が文字化けしづらいという特徴などの点で、多くのユーザーにはまだ価値を感じられるものだったのかもしれません。
「よくわからないけれど、このソフトはまだ必要とされているのかな?」と思うと、なんだか強い愛着が湧いてしまいまして。そうして2017年ごろから気持ちを新たにして再び開発に取り組むようになったという経緯があります。だから、CubePDFの提供を続けられるよう、可能な限り手を尽くそうと思って取り組んできました。
(※3)「Microsoft Print to PDF」:OSレベルでPDFファイルを作成する機能。多くのアプリケーションから文書の作成時などに「印刷」を選ぶことでPDFを生成できる点で、CubePDFの仮想プリンター機能と重複する。
――最後に、今後の目標をお聞かせください。
津川:会社としては、数多くの幸運にも恵まれた現状をしっかりと維持し、今後もソフトウェアを持続的に提供していくことが第一です。
特に広告収益はプラットフォームの動向に左右される部分も大きく、予断を許しません。広告と有償版の収益比率は現状7対3ほどですが、有償版を伸長させていくのが当面の目標です。
僕自身についていうと「自分の主業はあくまでソフトウェア開発」という思いがあるものの、経営や子育てといったライフステージの変化もあり、開発に割ける時間はかなり減ってしまっているのが悩みです。理想をいえば、将来的には信頼できる人物に経営のバトンを渡し開発に集中できる体制を整えたいのですが、人事面のノウハウもないので、人材発掘も大きな課題のひとつですね。
余談ですが、僕にはソフトウェア開発において確固たるこだわりがありません。強いていえば「自分の理想を入れない」というのが理想です。「PDF変換ツール」とユーザーが聞いて想像する通りの機能を提供したいですし、逆に特殊すぎる仕様を入れて「余計なことを!」などとは絶対に言われたくない。これからもできる限りユーザーが本当に望む機能を提供し続けられるよう開発を続け、より多くの方に役立てていただければと思っています。
取材・執筆・編集:田村 今人
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