2024年11月14日
岡山大学 教育学研究科 実践データサイエンスセンター教授
寺澤 孝文
筑波大学博士課程修了(心理学)。筑波大学助手、岡山大学講師・准教授を経て、2008年より現職。中心的な研究テーマは人間の記憶・認識・思考のメカニズムの理論化(AI の理論)、および高精度ビッグデータの収集法の確立とそれを実現するシステムの開発。趣味は列車や高速バスの中でボーッとすること。
「人はちらっと1回見ただけの記憶でも、少なくとも数か月以上は記憶に留めます。にわかには信じられないとは思いますが、それを証明したいんです」――。
そう話すのは、岡山大学学術研究院教育学域(教育学研究科実践データサイエンスセンター)教授・寺澤孝文さん。大学院生時代の実験で行き着いたこの理論の完全実証を目指し、30年以上も研究を続けています。
実証のために教育学の世界にも活躍の場を広げ、寺澤さんは独自のe-ラーニングシステムまでひとりで開発しました。そのシステムは、1日5分「覚えようとはせずに」英単語や漢字を見流して学習するだけで、記憶への定着効果があるのだといいます。一体、どういうことなのでしょうか。人の「記憶」をめぐる、人生をかけた研究について取材しました。
寺澤:私は記憶と認識のメカニズムを解明することをライフワークとしています。その研究の過程で確信しているのは、人には「いちど見ただけのものでも、少なくとも数か月の間、無意識に記憶に留めておける」能力があることです。この、記憶の永続性(この場合、『永遠』ではなく長期間続くことを意味する)を証明することに最初に取り組みました。
この研究に取り掛かる前は、記憶の永続性そのものに注目していたわけではありません。1990年代前半、博士課程時代の私は実験心理学の研究に取り組み、「再認」に関する研究をしていました。再認とは、人間が「すでに経験したものと、経験していないもの」を区別する能力のことです。
再認について調べる典型的な実験では、まず被験者に、いくつかの単語が含まれるリストを提示し、単語を覚えさせます。次に、新たな単語リストを提示します。新たなリストには、最初に提示した単語と、未提示の新たな単語などが含まれます。そして被験者に最初に見たことのある単語と、そうでない単語を区別させるのです。
この「再認テスト」なのですが、新聞や雑誌など日常でよく見かける単語(高頻度語)と、あまり出てこない単語(低頻度語)を実験に用いると、それぞれで正答率が変わってくるんですよ。つまり、低頻度語では「これは以前見た。こっちは見ていない」と正しく再認できる一方、高頻度語を使った場合は、最初のリストに含まれていない新たな単語でも「これ、さっきのリストで見た」と誤答(虚再認)してしまう傾向があると、以前から報告されています。
こうした現象を受け、高頻度語の方が再認テストの結果が悪くなる原因として、その単語に関する過去の経験が、再認判断を邪魔しているのではないかと私は考えました。そして、「もし人が人生を通して体験した数々の経験が、再認に影響を与えているなら、かなり前にした経験も、再認に影響しているのでは?」と仮説を立てました。そこで、長い期間をかけて再認テストの実験をいくつも行いました。1994年の博士論文でまとめています。
寺澤:一例を挙げると、大学生35名に、2文字の漢字単語をいくつか2秒ずつ提示して学習させ、直後に再認テストをしました。そして18週間後、2回目の実験を行います。この時も、単語を提示して学習させ、再認テストをします。2回目の学習リストには、新たな単語のほか、学生には教えずに、1回目で学習させた単語も含ませておきます。もちろん、学生は数か月も前に覚えた単語をもう一度覚えたことなどは、意識的には気付いていません。
再認テストの結果は、興味深いものでした。一部を抜き出しますと、低頻度語の場合、1回目(18週間前)にも学習した単語に対して「見た」と答えた割合は69.6%だったのに対し、新しい単語に対して「見た」と答えた割合は、60.6%だったのです。大きな差ではないですが、統計的に見ると有意な差です。このような実験を、何十回と行いましたが、ほぼすべて同じような結果が出ています。
つまり、一見些細に思える経験でさえ、長期間にわたって無意識に記憶に残ることが示されています。わずかな出来事が、数か月後の判断や行動に影響を与えるということです。
我ながら「本当か?」と思った私は、その後、単語学習のほかにも、様々な研究を重ねてみました。例えば、ランダムにつくったメロディを、28日後に同じ被験者に聴かせたら、他のダミーのメロディよりも、「聴いた」と答える割合が極端に高くなった、という研究(※1)。また、数秒見ただけのぐちゃぐちゃな図形を、3週間後の再認テストでも「見た」と答える割合が有意に高くなる、という実験(※2)など。一部の結果は、日本国内では主要な学術雑誌にも掲載されるようになってきました(※3・4)。
こうした実験を経て、「人は、いちど見たり、聴いただけの意味のない感覚的な情報を、少なくとも月単位で、無意識的に記憶に留めておける」という結論に私は至りました。
車の運転方法や、言語の話し方など、思い出そうとせずともフッと湧き上がる記憶が、これに該当します。研究者は、このような無意識に残る記憶のことを「潜在記憶」と呼んでいます。
寺澤:そこがかなりのネックでして…。
この「記憶の永続性」についていくら私が論文を出しても、他の学者の方が追試(※5)をしてくれるような動きはほとんど起きませんでした。
つまり、第三者によって再現性が実証されていないので、この研究は学術的な評価を得られずにいます。
寺澤:そもそもこの理論が「眉唾もの」としてみられているからですよね(笑)。そして、検証に時間がかかりすぎるのも難点です。だって「人は4か月前にちょっと見たものを潜在的に覚えている」なんて論文を追試しようとすると、当然ながら検証に最低半年は要しますよね。
これはなかなか大きな負担です。実証して結果が出るか不確かなものに対して、そんなコストを割いてくれる研究者はそうそういないんですね。
「科学的事実として、人がいちど見たものの記憶は従来考えられてきた以上に長く残り続けますよ」というのが私の主張ですが、博士論文から30年が経ってもなかなか受け入れてもらえない。
ならば、多くの人々が目を向けてくれやすい分野でこの理論を応用しアピールしてみよう…。そう思ってたどり着いたのが、教育の世界です。
(※1):寺澤孝文・鶴田真理(2011).知覚の潜在記憶:注意を向けただけの感覚情報を人は長期に保持する.第9回注意と認知研究会合宿研究会
(※2):益岡都萌・西山めぐみ・寺澤孝文(2017).無意味図形の長期記憶現象.日本心理学会第81回大会発表論文集
(※3):上田紋佳・寺澤孝文(2008).間接再認手続きによる言語的符号化困難な音列の潜在記憶の検出.心理学研究2010年81巻4号
(※4):益岡都萌・西山めぐみ・寺澤孝文(2018).視覚的記憶の長期持続性と変化検出過程への影響.心理学研究2018年第89巻第4号
(※5)追試:論文が示す内容の真偽について、第三者が実験・分析し検証を行うこと。
寺澤:「マイクロステップ・スタディ」(以下MSS)という、私の研究を応用したeラーニングシステムを開発し、実証実験や本運用を進めています。スケジューリングという新しい技術と、記憶の永続性に関する潜在記憶の理論を応用した教育システムとなっています。
MSSの開発・運用目的は、大きく3つあります。まず、効率的な暗記学習方法を確立し、勉強に悩む児童生徒や学生の一助とすること。実証を通して、私の理論に学術的関心を寄せていただくこと。そして、MSSを通して、学習者の成績変動や潜在記憶に関する膨大な情報をビッグデータとして集め、更なる研究に活用することです。
寺澤:一問一答形式のシンプルな学習ドリルとテストを繰り返す、WEBベースのe-ラーニングシステムです。現在提供している学習教材は、英単語の意味や漢字を覚えさせるのが主です。1単語を2秒ほど、見流すように見て、1日分の学習時間は約5分。これを長期間繰り返すことで、潜在記憶への単語の定着をねらいます。
システムの根幹を担っているのは、「スケジューリング」というアルゴリズムです。これが大変重要で複雑なんです。
潜在記憶の変動を正確に測定するのは、とても難しいです。例えば、一般的に一夜漬けの翌日にテストがよく解けても、覚えた内容はすごいスピードで忘れていきますよね。このような記憶を「顕在記憶」と呼びます。意識的に「う~ん、なんだっけ」と思い出そうとして想起される記憶です。
しかし私としては顕在記憶ではなく、より長く残る潜在記憶の方に直接アプローチして、学習者の潜在記憶に単語がちゃんと定着しているかを、長期間かけて何度もテストをして計測したい。それも、何千という単語の、一つひとつについて測定したいのです。
そこで、テストをするときに「覚えたばかりの単語」が出てしまっては困るので、各単語について、どのタイミングでどんな学習をし、それからどのくらいインターバルを空けてテストするのかなどを完全に制御し、成績の変動を連続して収集するという、スケジューリングの技術が必要になるわけです。
寺澤:ただ、学習者ごとの学習スケジュールを数か月~数年単位で生成し、生徒によって異なる成績変動のグラフを集計することは手動では到底不可能です。そこで、自動化を図るため、このスケジューリングのアルゴリズムを開発しました。最初のアルゴリズムは、かつて広く普及していた「dBASE」というデータベース言語で1996年に実装しています。
寺澤:日本各地の教育機関と提携してMSSの実証運用を進めるうち、さまざまな事実が分かってきました。例として、英単語の場合、同じ単語を長い期間でまばらに繰り返し勉強すると記憶への定着がより強固になる。一方で、1日の中で同じ単語の学習を6回以上繰り返しても、その暗記効果は大学入学共通テストのような実力テストの成績向上にはつながらず無駄になってしまう、との知見も示されてきました(※6)。重要なポイントとして、MSSの学習者には、勉強する時には「覚えようとせず、見流すように、どんどん勉強を進める」ように指示を出しています。このような学習でも実力が上昇していくのが潜在記憶の特徴のひとつで、その効果も検証されています(※7)。
寺澤:実証運用を開始して28年経ちました。ようやくですが少しずつ、具体的な教育効果が学術的に示されてきました。
最近ですと、例えばMSSを受けた高校生500名以上を対象に、MSSでの学習量と英検(実用英語技能検定)のスコアを分析した例。特定の条件下において、MSSの学習量が1日分多いと、英検スコアが平均的に1.04点高くなる、との有意な関係が示されました(※8)。
また、ある国立大学で1年生全員を対象に年間を通じてMSSを実施した結
計測できた効果自体は、まだまだ小さなものではあります。ですが、そもそも英検やGTECのような総合的英語能力試験のスコアに効果があると科学的に示されたeラーニングシステムは、まだ世界にはありません。それが、学術的に認められた意義は大きいのではないか?と考えております。
潜在記憶の理論を活用することで効率的な学習システムを目指してきましたが、理論の発展や裏付けを行ううえで、こうした客観的なデータも極めて重要となります。1日5分の勉強を、10分、15分にしたらさらに成績がこれぐらい上がるのではないか?といった学習手法の改善計画も立てやすくなってきますから。地味な一歩かもしれませんが、理論とデータを両輪として積み重ねを行うことで、科学は発展していくものだと考えます。
寺澤:まず、記憶の永続性にまつわる理論については、ごく最近「意味のない図形」を用いた潜在記憶の実験結果が、海外の主要雑誌に採択される一歩手前まできています。もしも正式に掲載されれば、追試をする動きが生まれるのではないかと期待しております。
純粋な教育的目的でいうと、より効率的な学習手法を完全に確立し、学習意欲を失っている子どもでも学びやすい世界へ向けた一助となれたら…と考えています。意欲を失った子どもほど、MSSを通して学習へのモチベーションが上がりやすいことが証明されはじめてきたところです(※10)。
また、人間の記憶と認識の仕組みの本質を解明していきたいとの思いも強いです。
人間の脳は、過去の無数の経験を長期間にわたって無意識のうちに保持する、ということを私は研究で示してきました。哲学的な仮説になりますが、こうして蓄積された無数の感覚的な記憶を使って、瞬間瞬間、新たな情報を生成することで、我々の脳は意識や認識を生み出しているのではないか?と、私は考えております。
それこそが人の知性の核心部分であり、現在のAIでは原理的に真似できない最大の特徴ではないかと。もしもこうした脳の本質について解き明かすことができたら、記憶のメカニズムを追い続けてきた研究者としてこの上ない喜びです。
(※6):寺澤孝文・吉田哲也・太田信夫(2008).英単語学習における自覚できない学習段階の検出ー長期に連続する日常の場へ実験法を展開するー.教育心理学研究56巻4号
(※7)西山めぐみ・益岡都萌・田中優貴・牛司策・寺澤孝文(2018).2秒に満たない学習で語彙力は確実に伸びていく.日本心理学会第82回大会
(※8):山本康裕・益岡都萌・寺澤孝文(2023).潜在記憶を基盤とするe-learningと高校生の英語力との関連.日本心理学会第87回大会
(※9):山本康裕・益岡都萌・宮﨑康夫・寺澤孝文(2023).e-learningと進級条件が大学生の英語力に与える効果.心理学研究2023年94巻4号
(※10):益岡都萌・長谷川達矢・西山めぐみ・寺澤孝文(2018).学習成果のフィードバックによる学習意欲の向上.日本教育心理学会第60回総会発表論文集
・その他参考文献
森敏昭(編著)(2001)『認知心理学を語る①:おもしろ記憶のラボラトリー』北大路書房
寺澤孝文(編著)(2021)『高精度教育ビッグデータで変わる記憶と教育の常識―マイクロステップ・スケジューリングによる知識習得の効率化―』風間書房
取材・執筆:田村 今人
編集:王 雨舟
撮影:赤松 洋太
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