2025年1月15日
Yamada Nobuko
2003 年、新卒採用を開始したWorks Applicationsにインターンシップを経て入社。未経験文系女性エンジニアのハシリ。人事管理、給与計算システムの基盤機能を中心に担い、2013 年に上海へ赴任、2016 年に娘、2018 年に息子の出産を経て、再び開発の現場に復帰する。会社分割後のWorks Human Intelligenceでは、テックブログで情報発信を重ね、トップコントリビューター賞を 2 年連続受賞。2022年に転職し、現在は外資クラウドベンダーのサポートエンジニアをしながら「生涯、エンジニア」として日々現場を楽しんでいる。QiitaやGitHubなどの各種アカウントは@e99h2121。
生涯スペシャリストでいたいと思った理由を改めて問われ、今回振り返ってみると、最初からその道を目指していたわけではないなと、自分でも気づきました。どちらかというと自分が一番楽しかった経験がそうさせているんだな、という思いが深まっています。その根底に流れるマインドを表現するなら、「平坦な道じゃきっとつまらない」だと感じています。
どうにもならない今日だけど
平坦な道じゃきっとつまらない
君と生きてく明日だから
這い上がるくらいでちょうどいい
このフレーズを聴いて、知ってる!と思う方はたぶん同年代なのですけど、マンガ『魔法陣グルグル』のアニメの主題歌だった「風にあそばれて」という曲の一節ですね。私、小さい頃はゲームの中でもRPGが大好きで、ドラクエも当然好きで、ファンタジーと冒険とコメディも入り混じる世界観が心地よいんですよね。私この歌をたまに思い出しては、「平坦な道じゃきっとつまらない」とずっと思っていまして。
そういう意味で、新卒入社した会社の存在と、そこで身に付けた考え方は、圧倒的に私のキャリアに大きな影響を与えています。私が20年同じ会社にいられたのは、その会社が当時はいつ潰れてもおかしくないようなベンチャーだったからなのかもしれません。新卒入社というのは人生で1度しかないわけですが、その道を選べたことはラッキーだった。なにより率先して「手を挙げる」ことが尊重されたし、その働き方を叩き込まれたからだと思います。
そもそものところを言うと私は新卒入社の段階で、自分のことを「負け組」だと思っていたんです。
本当は大学の学部も文系で、それまでは何かものを書く、文系の仕事につきたかった。ITエンジニアなど、なりたくてなったわけではなく、たまたま文系を受け入れていたのが IT業界だったからというだけ。今でこそ未経験からエンジニアとか、女性エンジニアとか、ちょっと意外性もあってブームのようで、格好良く語られるかもしれないですが、私が就活をしたのは「氷河期」真っ只中です。「時代」に対して文句などどうにも言いようがないですが、まあ就活大変だったな!といまだに思います。
大学4年生の夏休み、運よく募集中のインターンシップを見つけ、参加し、入社パスをいただきました。その頃はもう割と就活自体に飽き飽きしていたし、アルバイト先に転がり込もうかなとも考えていたくらいでした。ぎらついたベンチャー気質とかは良くわからないですが、シンプルに、同じようにインターンに集まったほかの人たちが面白そうな人たちだったというのが決め手でした。
思えば、私のキャリアに共通する「何かを始めるときの頭の中」ってこんな感じです。
初めての仕事をするときというのは本当にドキドキして、子羊のように震えるんですけど、でも実際、本当にどうにもならないことなんて、意外と無いものです。こう書くと生存者バイアスというか、一度も倒れたことのない人の言葉になるのも違うんですけど、でも、私わりと失敗を失敗と思っていないことも多くて (笑)。倒れそうなギリギリのとこでいつも意外と何かを見つけたり、助けてもらったりする。常にお天道様に感謝というか、むしろ楽しむ気持ちが大事かなと。この楽しさは偶然就職を決めた、新卒時代から教わってきたんだなと思います。だからこの私のキャリアって自分でつかみ取ったものというよりは、きっかけ、はじまりは運というところも強調しないといけないですね (笑)。
さてそんな新人の私、入社してからも「平坦な道」ではありませんでした。入ってみて、私はこの仕事向いてないな、と思っていました。エピソードと言えば、入社して最初に与えられた仕事。 LAN 線を自分でつくらされました。なんで?って思いますよね。でもベンチャーってそういうものだと。新人もお客様ではないのです。なんでもほしいものが手に入ると思うなと。「そういう”当たり前”にとらわれるな」、「思考停止するな」、「考えろ」と叩き込まれました。
驚くことに私、配属されて初めてソフトウェアにはクライアントとサーバーというものがあるらしいと知りましたし、逆に言えばそれすら知らない新人に仕事が任されていました。誰に任せても最高難度の仕事なので、新人がやっても同じという考え方なのです。
その後から「三層構造」というものをつくるらしいと知りました。当時 HTMLをちょいと書いてホームページを自作するみたいなことをした程度の私が、その程度の知識から、いっぱしの日本の大手企業を支える ERPパッケージという、業務アプリケーションをつくるぞと言われて。普通は無理だろと思うしかないです。でも、当時の会社では、どうせベテランがやっても新人がやっても難しい仕事なのだから、新人にこそ失敗させるべきだという考え方で。
そうやって失敗を重ねながら仕事を覚える中で、自分なりの工夫やそれによる成功体験が徐々に増えます。秘書さんに頼んで、議事録係で良いからリーダー会議に参加させてほしいとか、図々しいリクエストをすることもありました。あとは、これも私の持ちネタなのですが、会社の座席を移動して、異動した話 (笑)。こっちのチームの仕事がしたいから、「私は今日からこの席で働きます」って勝手に移動したんです。もちろん怒られましたけど、でもそうやって覚悟を決めて手を挙げるっていうことを最終的にいつも許してくれた環境は、本当に今の道につながる一歩です。
さて私の「何かを始めるときの頭の中」のおさらいです。
これがなぜ大事かというとやっぱり、人間って失敗したり追い詰められたりすることで成長するからなのだと思います。「移動(異動)」してからの私はようやく技術に対して本気で興味が湧きました。時系列的には入社 5~6 年以降のタイミングになるんですけど、とても技術的にも深みのある経験もさせてもらえました。
今度は「データベースのマイグレーションということをするらしい」という話なのです。一つのデータベース仕様に深く依存した業務アプリを、別のデータベース向けに載せ替えるということを行うプロジェクトだったのですが、そのプロジェクトを任せてもらえました。これ、何が大変かというと実態は、100、200 はくだらないストアドプロシージャを再生産する作業になったんですね。
SQL に少し詳しい方はご存じであろう to_char、to_date などといった関数を、自前でつくる作業です。何が面白かったかといえば、およそすべてのプログラムに影響が出るそんな重大な調査や作業を、私に任せていただけたこと。どうせ誰がやっても失敗するなら、私でも良いぞと。押し付けられたか、任されたか、考えようはあるかもしれないですが、私は少なくとも美味しい話だなと思えたんです。負荷分散、冗長化、そしてクラウドというものが出てくる時代です。ワクワクしますよね。
この経験が、いよいよ本題、スペシャリストたる道を究めるのは楽しそうだなと再認識するようになった第一歩です。とはいえこのころはシンプルに、知識こそが力、何も考えずに自分のできることを深めて、極めていればそれが自分の力とイコールだと感じていました。
新しい技術を任されて、自分がチームで一番詳しいんだ、と。何がやりがいだったかというと、ともかく頼られるのが嬉しかった。しばらくして、隣接したアプリケーション基盤領域のリーダーも務められるようになりました。そうなると、顧客からのトラブルや問合せ対応にも、自分が一番詳しくなって、頼られている感が一層楽しくなったのです。
30歳目前。この頃にようやく ITエンジニアらしい仕事の面白さに気づいたように思います。楽しかったです。この経験が、今の自分につながっていて、実際の圧倒的リアルな現場で使われているソフトウェアと、ソフトウェアの理想をつなぎ合わせる作業の面白さ、それこそサポートエンジニアの醍醐味なんですけど、それを味わうことができました。
現場のお客様と直接やりとりしたり、お客様と対話しているチームともやりとりしたりで、「怒られる」という経験もかなり増えました。もちろん、お客様から連絡が来ると怖いです。事件なんです。でも、理想や絵空事だけ描いていても、結局使われないソフトウェアなんて意味が無い。怒られるということは思い切り使ってもらえているということ。ソフトウェアをつくる人間にとって、使われてなんぼ。これはとても幸せな証拠です。使われているんだという実感がうれしい。これがいまの仕事にもしっかり繋がっているなと思います。
さて、そんな時期を経て、海外赴任~出産の時代に移ります。
これは、大きな決断でしたし、前職のハイライトです。すごく色々な考えに触れられた期間です。私、英語はまったく話せませんでした。読み書きがせいぜい、「英語の授業は嫌いじゃなかったけど」という強がりながら言えるくらいです。
この時期に私はマネジメントを経験することになりますが、いま考えるともしかしたらそこに挫折を感じていかもしれません。
言語の壁だったり、時間の壁だったり、さらにはワーキングペアレンツとなるということ。これまでは自分でなんでも頑張れていたことが、自分が頑張るだけじゃなくて、人に頼らないといけない環境になる。この海外赴任以降というのは、それを全方位から学べた時期でした。
言い方を変えれば、自分に無い技能を持つ方々と仕事をする、その人たちがどう楽しく働けるかを考える、という経験でもあります。それは出産、育児という制約が増えたタイミングだったからこそでもあります。そうした、他を尊重する考え方みたいなものを自分の中に熟成させられる機会があったのもこの時期です。
2019 年、2人目の出産を終えた私は、育休から復帰。開発の現場に帰ってきました。マネジメントには結局違和感を残したまま、産休から復帰するタイミングでえいやと。いわば、私はマネジメントに向いてないな、という表面的な結論だけ残して、もう一度開発者としてのスペシャリストの道を目指そうと再認識して現場に戻ったんです。
しかし、そこで気づいたのは、あれ、私最近「平坦な道」を歩いているな、という感覚。2人も子供がいて、育休から復帰して、それを「平坦な道」と称するって、ちょっとわかりづらいかもしれないですね。
私にとっては、ひとりのエンジニアとして全速力で走ることに楽しみを感じていました。環境や境遇からリミッターを掛けられ、若手時代と比べて失敗したり追い詰められたりして成長するチャンスが減っていたことにすごく違和感があり、少し窮屈に感じていました。
シンプルに、知識こそが力、何も考えずに自分のできることを深めて、ただ極めていればそれが自分の力とイコールになると感じていた時期そのままの感覚で仕事をしていたからこその窮屈さだった気がします。
次回では、この窮屈さや、満たされなさをどうにかするために転職したいと思ったということ、それを超えて実際転職してみてどう感じているかを語りたいなと思います。予告をしてしまうと実は、意外と、マネジメントとしてのキャリアもスペシャリストとしてのキャリアも、どちらを選んでも極めれば極めるほど「平坦な道」じゃないし、ゴールは同じ。それは単なる役割の違いに過ぎないのかもしれないと気づくことになります。
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