

しんざき
システムエンジニア、PM、ケーナ奏者、三児の父。南米民族音楽の演奏が趣味。仕事・育児・演奏活動の傍ら、レトロゲーム雑記ブログ「不倒城」を20年程運営している。
こんにちは、しんざきです。
他人を褒めるのは苦手なんですが、自分を褒めるのは正直めちゃくちゃ得意なので、日々大量の褒め言葉を自給自足しています。自己満足スキル(自己を満足させるスキル)は社会において重要。
今日書きたいことをまとめると、大体以下のような内容になります。

以上です。よろしくお願いします。
さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。
次女から「褒めるのが苦手」と相談された
最近次女から聞いた話をきっかけに考えたことが、私自身良い整理になったので書いてみます。
しんざき家の長女と次女は、同じ中学に通う双子です。双子ながら性格も違えば好みも違い、それぞれ別の部活に所属しています。長女は音楽関係の文化部、次女は演技型の運動部です。次女の方は、どうやら副部長になっているようです。
もちろん練習が大変とか人間関係が大変とか、色々あるのでしょうが、概ね楽しそうに部活動をやっていて何よりだと思います。
で、2人とも学校で起きたことをたくさん話してくれます。親としては大変ありがたいことである一方、ご飯の時間は限られているので話に夢中になり過ぎることはちょっとした悩みの種なんですが、先日夕飯の席で、次女がこんなことを話してくれました。
次女「この前の大会で、後輩の子がすごいがんばってて、いろんな技できるようになって」
私「うんうん」
次女「褒めたいって思ったんだけど、何も言えなかった……」
私「うん?そうなの?」
次女「なんか、いろいろ考えてたら時間経っちゃって、今さら言うの変かなって……」
まず、ほんの数年前は小学生だったのに、もう「中学の先輩になったのかー」と思うと、正直感無量でした。
もちろん小学校でも上級生、下級生はあるんですが、まだ「先輩/後輩」というほどかっちりした関係性ではないのではないかと思います。それが「中学の部活の先輩」ともなると、何となく後輩の指導も考えないといけないし、部に対しての責任感みたいなものも(人によっては)うっすら芽生えてくるし、ちょっとそれまでとは違う重みになってきますよね。副部長ということで、余計に責任を感じてしまうのかもしれません。
それはそうと、次女から「褒めるのが苦手」という話を聞くのはこれが初めてではなく、ちょこちょこ以前から似たようなことを聞いていました。正直私も同じ苦手意識を抱えているので、「もしこの機会に理由を整理できたら私自身何かの参考になるかもな」と思いました。
まず、
私「俺も同じように思うこと結構あるんだけど、(次女の名前)は褒めるときどんなこと考えちゃう?」
と聞いてみました。次女は「んー?」と首をひねって、しばらく考えた後、
次女「なんか、頑張らせるために適当に褒めてると思われるの嫌じゃない?だから言い方とか……どこが良いと思ったのかとか……けど、“そんなことないです”って言われたらイヤだったかなってなるし」
私「うん」
次女「あと、○○(次女がやっている競技)って練習ですぐ演目変わっちゃうから、後から“あのとき良かったねー”って言っても“どれ?”ってなりそうだし」
会話は所々曖昧なんですが、大体上記のようなことを言っていました。あと、「褒めるの上手になりたい……」みたいなことも言っていたかな。
「なるほどなー、先輩としてすごく真っ当な悩みだなー」と感心したわけです。私が中学生の頃なんて、後輩に対して「なんか年下のヤツらが部活にいるなー」という程度の 意識しか持っていませんでした。
「褒める」にまつわる忌避感、違和感、警戒感
次女が考えていたいろいろなことは、大きく分けると下記の3つに整理できそうでした。
・相手をコントロールする手段として「褒める」ことに対する忌避感
・褒めるタイミングの難しさ、後から褒めることに対する違和感
・相手から褒め言葉を拒絶されることへの恐怖心、ないし警戒感
まず、次女は「褒める」という行為に「相手のモチベーションを高める」という「意味」を見出していて、そこに一種の嫌らしさを感じているように思えました。
大前提として、本来「褒める」という行為に意味なんて持たせる必要はないし、感じたことを素直にとさらっと言えばいいという話はあります。「すげー」と思ったら「すげー」と言えば良いし、「良かった」と思えば「良かった」と言えば良い。
けれどその上で、大人の世界では、褒め言葉にモチベーションを高める要素があるのは間違いありません。褒められると嬉しい。嬉しいからやる気が出る。だから、しばしば褒め言葉は、上司が部下に、先輩が後輩に、やる気を出すための一種のツールとしても使われます。不純な話ですが、やっぱり「何も考えずに褒める」って、できる人とできない人がいると思うんですよ。
で、次女からすると、そういう「不純」さをどうしても意識してしまうんですよね。褒め言葉が、相手をコントロールするための飴になってしまう。相手からしても、「こいつ、俺にやる気出させるために適当なことを言ってるな」と思ってしまうかもしれない。それはちょっとイヤだ。
「褒めるテクニック」みたいなものがあまりに一般的になり過ぎてしまったために、褒められる側も褒め言葉に対して身構えてしまう、という要素もあるのかもしれない、と思いました。もちろん、何も考えずにさらっと褒めてくれれば、それが一番良いんですけどね。
次に相手の反応。
これは一般的に言ってしまっていいと思うんですが、「褒め上手」と言える人が数少ないのと同じかそれ以上に、「褒められ上手」という人は少ないです。褒められたときにどういう態度を取るかというのは、褒めることと同じくらい難しいです。
私も今まで社会人をやってきて、「褒め言葉を拒絶してしまう」あるいは「褒められるとやたら自己卑下してしまう」人を何人も見てきました。褒め言葉を投げかけられると、どうしても「大したことないですよー」とか「そんなことないですよー」と拒絶してしまう人。それ自体は別に悪いことじゃなくて、自分が一時的にでも「持ち上げられる」ことを防ぐための、一種の防衛本能みたいなものだと思います。
ただ、「褒める」という行為に意味を見出してしまう次女としては、単に褒めたかっただけのつもりなのに、「コントロールしようとする意志を見透かされて、それを拒絶されたというように聞こえてしまうのでしょうか。だからこそ、「褒め言葉の受け取り方は人それぞれなんだから、いちいち反応なんて気にしなくて良い」とも思うんですけどね。
最後にもちろん、タイミング。
次女の意図としては、後輩が頑張ってたときに、「今頑張ってたね」と指摘してあげたい。ただそれだけで、なるべくほかの意味を絡ませたくないわけです。ところが、時間を置けば置くほど、褒め言葉に「余計な意味」が乗ってしまう。
褒められる側からしても、「何を褒められているのか」ということにはピントを合わせる必要があります。何かを成し遂げた直後なら、自分の意識もその「成し遂げたこと」にピントが合っているから、するっと「今頑張ったね!」という言葉を受け入れられるかもしれない。けれど、後から褒められると、「何のことだっけ?」まで思考を戻さないといけない。
「その場」での褒めではなくなってしまったことによって、より後輩の思考を誘導するような形になって、「先輩としての指導」みたいな意味になってしまうんじゃないか、と。次女としてはそういう心配をしているように見えました。
「褒める」ではなく「観察の結果を伝える」
多分、上記に共通する根本原因って、「褒めることに意味を見出し過ぎ」ということなんじゃないかな、と思ったんですよ。
そもそも「褒める」こと自体、別にそんなに大袈裟な話じゃないんです。次女がしたいことだって、本来はただ「今すごかったね!」、「頑張ってたね!」って伝えたいだけであって、別に自分が先輩だからとか、相手にもっと頑張ってほしいとか考えていない。
「褒める」って、一言で言うと「自分が良いと気付いたことを相手に伝える」だけのことです。相手の行動をちゃんと見る、具体的にどう変化したのかに気付く。その変化こそが相手の頑張りであって、こちらとしては「変化に気付いた」ということ、「ちゃんと見てたよ」という、観察の結果だけを相手に伝えればいい。
褒めることによって相手を動かそうとすること自体が「不純」ならば、そんなものは目指さなくていい。もしも何かを目指すのだとすれば、
相手をよく観察する → 気付いたことを具体的に伝える → 相手がどう受け取るかは任せる
というサイクルであって、その方が自分も相手も上手く回る可能性が高い。
だとすると、そもそも「褒め上手」なんて目指さなくていい。大事なのは「観察」。
「褒め上手」なんて目指すから話がややこしくなるのであって、あえて目指すなら「観察上手」でいいと思うんですよね。みんなが何を頑張っているか、ちょっとした動きの変化。そういうところに気付いて、「気付いたよ」と伝えるだけで、相手からすればちゃんと「見てくれていた」となると思うんです。
考えてみると、これ、仕事の上で管理職をやっているときの部下との接し方とも同じだなーと。管理職をやっていると、どうしてもマネジメントとか、部下のモチベ管理とか考えてしまうので、どう評価を伝えるとか考えちゃうんですけど、結局大事なのって「あなたはどこを頑張っていましたね」という認識だと思うんですよ。その認識がまずあれば、そこを伸ばしてあげることもできるし、あるいはちょっと違う方向に気付いてもらうこともできる。
管理職の自分自身、その辺を明確に言語化できていなかったと思うと、反省しきりなわけです。
親から子どもへ、助言できる量を調整する
もっとも、私の気付きは気付きとして、次女にどう伝えるか、というのはまた別の話です。
親として子どもに何を伝えられるか、というのはずーーーっと長いこと私のテーマであり続けていて、自分が思ったことすべてが正しいとはもちろん限りませんし、それを子どもが全部拾ってくれるとも当然限りません。親が100話したとして、それが子どもに残るのはせいぜい5とか10くらいかも知れませんし、ちゃんと納得してくれるのは10年後や20年後かもしれません。上記のような気付きを全部まとめて伝えても、多分「そんなにいっぺんに言われても……」ってなると思うんですよ。
だから、そのときその場では、「褒めるっていうよりは、「見てたよ」って伝えるだけでいいんじゃないのかなー?」とだけ伝えましたし、次女は「うーん?」と考えているだけでした。
ただ、そのもう少し後に、やっぱり「後輩がこんな技できるようになった!」、「今度は褒められた!」と言っていたので、おそらく何ほどかの意識付けにはなったのではないかと思います。
長男にせよ長女にせよ次女にせよ、この先も多分いろんな人間関係に触れるでしょうし、多分それを私に伝えてくれることもあると思うんです。そのときは、なるべくサボらずに考えて、自分なりに助言できる量を調整して、最終的にちょっとでも子どもたちの心に、何か役に立つものが残るといいなーと。
そんなふうに思うわけです。
今日書きたいことはそれくらいです。


