
atama plus株式会社 VPoE
前田 和樹
リクルートテクノロジーズにて基盤エンジニアリングやプロジェクトマネジメントを経験。その後、教育事業に関わるためにatama plusにジョインし、エンジニア組織全体の統括を担当した後、現在はVPoEとして開発組織全般の運営に従事。AWS Community Builderとして技術コミュニティやOSS活動も実施。
技術戦略を立て、それに基づいて投資の提案をするとき、「ロジックは正しいはずなのになぜか通らない」という経験はありませんか。その要因は経営層との視点のズレにあるかもしれません。
これに対し、「財務情報を読み解くことで、いま取るべき技術戦略が見える」と語るのは、atama plus株式会社でVPoEを務める前田和樹氏です。本記事では、3月に開催された「EM Conference Japan 2026」で前田氏が披露したセッション「経営と会計とエンジニアリング」の内容を一部再構成してお届けします。
EMやVPoEが、将来の企業価値を最大化する技術戦略を練り、経営層に伝わる言葉で提案するためには何をすべきか。企業のキャッシュフローパターンに基づく戦略の立て方や、AI時代における新たな技術投資の考え方などヒントの数々をご紹介します。
経営会議の内容が全く分からなかった新米VPoE時代
今日は経営や会計の視点からエンジニアリングの話をします。
EMやVPoEに求められる役割のひとつとして「技術戦略を立てる」というものがあります。そもそも「技術戦略」とは何でしょうか。
昨年刊行された『エンジニアリング統括責任者の手引き』(オライリー・ジャパン)には、 「エンジニアリング戦略とは、次のことを定義するドキュメントだ―優先事項に対するリソース配分、基本ルール、意思決定方法」(p.35)と書かれています。そして「統括責任者になってから、財務計画こそがすべての会社の計画の基礎だということにようやく気づき、驚くことになる」(p.65)といいます。

僕がVPoEを任された当初、技術戦略を考えるために財務情報を手に入れなければならない、という自覚があり、情報を得るために経営会議などに出ていました。会議の初めに会社の月次の財務情報シートを見て、その次に事業部長やCOO(最高執行責任者)のコメントを1時間半聞いて終わる、というのを3、4ヶ月繰り返していました。
正直に言うと、「みんなが何を言っているのかよく分かっていない状態」でした。
そこから各事業の財務に関する数字を見ながら勉強し始め、大型案件の商談に同席したり、経営や企画メンバー、各事業部長に話を聞きに行ったりするようになりました。これを半年ほど続けてやっと、「財務情報」を頭の中で理解するだけでなく、自分の言葉で語れるレベルになったのです。
会社や事業のフェーズに合った提案をするには、財務情報の正しい理解が不可欠
「経営や会計の言葉で喋りましょう」という提案アプローチ自体は、よく聞きますよね。これが意外と難しいのです。
例えば、EMが経営層に対して「インフラの最適化」を提案するシチュエーションをイメージしてください。
「EC2の基盤をECSのFargateに変更して」「モダンなアーキテクチャで」などと技術用語を並べて突っ走ってしまう人はあまりいないはずです。多くのEMは、「この施策には12人月かかり、初期投資は1200万円ほどを見込んでいます。一方、ランニングコストを月額200万円下げる効果があり、年間で2400万円改善できます。よって、6ヶ月で投資回収できて合理的です」と打診するかと思います。
1200万払ったら2400万返ってくる――。とても魅力的に聞こえませんか。
ところが、いざ話すと提案が通らない。計算は正しいですし、どう考えてもやるべきですが、なぜか経営層と会話が噛み合わないのです。
何が足りなかったのでしょうか。
このシチュエーションでは、「この投資をすることによって、(会社や事業にとって)こういう効果が得られる」というマクロな観点が欠けていました。というのも、会社や事業の状況によって将来的な期待値や投資判断の基準が異なるため、「この技術投資が社内インフラの維持管理コスト削減につながる」というミクロな合理性だけでは提案は通りづらいのです。
マクロな観点で語れるようになるには、財務会計の数値を自ら読み解いて、「今自社や事業がこういうフェーズで、こういうことが求められているんだな」というイメージを描く必要があります。ここでキーワードになるのが、財務情報です。これを正しく理解することによって、取れる戦略が変わってきます。
まずは財務三表。最重要は「キャッシュ」の流れを見ること
財務情報はどこから仕入れられるのでしょうか。まずは「財務三表」と言われるP/L、B/S、C/Sの3つの項目です。

P/Lが損益計算書で、事業でどれくらい稼いでいるか。B/Sがバランスシートで、資金にどのくらい余裕があるか。C/Sがキャッシュフロー計算書で、これが読めると現金の出入りが分かるようになっています。
この3つの中で、今回は「キャッシュフロー」に注目します。
なぜなら、EMの仕事で求められる「事業貢献」につながる観点だからです。一般的に事業貢献というと、P/L上の売上や利益を思い浮かべる人が多いかと思いますが、会社は必ずしも売上・利益を追っているとは限りません。一番大事なのは、その会社の「企業価値」を上げることです。
企業価値とは、その会社が将来生み出すキャッシュフロー、お金の総量のことです。売上や利益は手段に過ぎません。EMとしての事業貢献を考えた時、このキャッシュフローを見ることが非常に重要なのです。
ファイナンスの世界で「利益は意見、キャッシュは事実(Profit is an opinion, cash is a fact)」と言われます。利益の定義は会社の会計方針によって変えられがちですが、キャッシュの流れは変えられません。
キャッシュフローを語るうえで有名なのがAmazonの事例です。
かつてのAmazonは長年、「赤字経営」「薄利」と言われていました。実際に2011年から2016年頃のP/Lだけを見ると、純利益は赤字か低水準で、あまり儲かっていない会社のように見えます。

しかし、C/Sを見ると実態は全く異なります。本業で稼ぐ力を示す「営業キャッシュフロー」は、この時期から先に向けて雪だるま式に増え続けていたのです。なぜこれほどキャッシュが増えているのに利益が出ていなかったのか。それは、稼いだキャッシュをそのまま即座に次世代の投資に回していたからです。

その結果、AWSやAmazon独自の物流網、Kindleといった新たな事業が次々と生まれました。キャッシュフローを追うことで、Amazonは実質的には赤字企業ではなく「キャッシュを使い倒す積極投資企業」であるということがわかります。
キャッシュフローの特徴別で見る、取るべき技術戦略の方向性3パターン
キャッシュフローは営業キャッシュフロー、投資キャッシュフロー、財務キャッシュフローの3つに分けられます。それぞれプラスだったらお金が増えている、マイナスだったらお金が減っているっていう状態です。

プラスとマイナスの2パターンの3乗で計8パターンに分けられます。今日は代表的な3つのパターンを見ていきたいと思います。

1. 優良型
優良型は、経営としてはかなり健全な状態といえます。営業キャッシュフローがプラスで本業で稼げており、投資キャッシュフローがマイナスで投資にお金を使っている状態です。

将来的にキャッシュを生むための「攻めの投資」に注力しやすい状況なので、大型のアーキテクチャ変更や新規事業向けプロダクトの開発、開発者体験向上への投資を切り出しやすいフェーズです。
2. 創業期型
創業期型は、営業キャッシュフローがマイナスで本業ではまだ稼げておらず、財務キャッシュフローがプラスで外から調達したお金を投資に回している状態です。

手元の資金はいつか尽きる、という前提で動く必要があるので、PMF(プロダクトマーケットフィット)が非常に大事なフェーズ。この状況では、技術負債をある程度許容した上で、いかに営業キャッシュフローをプラスにするための動きができるかが肝になってきます。高速に仮説検証を回す、あるいは社内のエンジニアリングリソースを事業のコア部分に注ぐために積極的に外注する、といったことが求められます。
3. リストラ型
最後はかなり苦しい状況ですね。リストラ型は、営業キャッシュフローはマイナスで稼げておらず、投資キャッシュフローはプラスで手元の資産を売りながらお金をつくっている。さらに財務キャッシュフローがマイナスで借金を返している状況です。

こうなってくると生存を最優先にするフェーズになり、インフラコストの最適化や直接的な売上に直結する機能改善へのリソース集中など、生き残りのための戦略が求められます。
キャッシュフローが厳しくても、先行投資したほうがいい理由
ここで1つ釘を刺しておきます。あくまで持論ですが、生存のための施策に集中して、次の世代の投資をゼロにするのはかなりリスクだと思っています。
いわゆる株式会社は将来のキャッシュフローを最大化することを目的に動いているので、将来のキャッシュフローの種になるものをこの時点でゼロにしてしまうと、その先で、出口のない悪循環に陥ってしまうリスクがあります。

これが「先行投資と財務のジレンマ」です。
営業キャッシュフローが悪化すると、技術投資の抑制が起きがちです。そうなると開発速度や品質が下がり、次の価値創出機会も失われ、競争力を失い、また営業キャッシュフローが悪化するサイクルを生み出しかねません。
先行投資をすると短期的なP/Lやキャッシュフローは悪化しますが、その悪化を一度受け入れてでも、「将来のキャッシュフローの源泉をつくる」という覚悟で投資しなければいけないのです。

先行投資と財務のジレンマを乗り越えた、Netflixの成功事例
ジレンマを克服した成功事例として分かりやすいのはNetflixです。
彼らは営業キャッシュフローが「踊り場」に直面するフェーズを何度も経験していますが、その度に投資を緩めるどころか、次なる成長へ向けて驚くほどアグレッシブに舵を切ってきました。
象徴的なのは、主力だったDVDレンタル事業が完全に下火になる前に、ほぼ全てのリソースをストリーミング事業にベットした決断です。また、他社コンテンツのライセンスを使った配信だけでは競争力に限界が見えた際にも、自社オリジナルコンテンツ制作に何十億ドルもの巨額投資を実行しました。

キャッシュフローが停滞しそうな局面でも、将来のキャッシュになる種を絶やさず、攻めの投資を継続する。まさにイノベーションのジレンマを何度もブレイクスルーしてきた事例であり、僕たちが目指すべき姿だと考えています。
AI時代、将来のキャッシュフローをどうつくるのか
AIの台頭に伴い、技術投資の中身が変化していくことを実感しています。採用費や人件費に次ぐ外注の選択肢のひとつとして、AIが第3の選択肢に入ってくるということです。
異なるのは、コスト構造です。固定費に近い採用費や人件費と比べて、AIへの投資は費用の変動が激しいといえます。というのも、AIに投資すればコーディングが速くなりますが、その分、開発のボトルネックはレビュー、QA、ガバナンスへと場所を移していきます。そのボトルネックの解消のために新たな投資をしなければならないからです。したがって、投資の配分をより高頻度でクイックに見直す必要が生じてきます。

このような状況で、エンジニアリングの立場から横断的な意思決定をする際の基準は「同じ人員でどれだけ多くのキャッシュフローをつくれるのか」です。
例えば、AIツールを導入して2、3人の少人数でDevOpsを回そうとしても、事業やプロダクトの所有コストを下げないと、これまで提供できていた価値を毀損してしまうことになります。まずはこの所有コストを下げるための投資を検討するところから入り、次に組織づくりへの投資を考えます。この配分がすごく難しいのです。
ここでキャッシュフローを生むためには、リスクを取って決断し、投資の効果を計測しながら、ユーザー価値を毀損しない安全な状態をつくることが必要です。僕たちもまさに、それぞれの技術投資がどのようにキャッシュフローとつながるのかを考えながら、計測の方法や対象を探っているところです。
まとめ
ここまで今後変わっていくものについてお話しましたが、意思決定の軸が「将来のキャッシュフローをどうつくるのか」であるという点は変わりません。

まずは、財務情報の中でも特にキャッシュフローのパターンを理解し、自社全体あるいは各事業のフェーズを把握すること。CFO(最高財務責任者)がいるなら「営業キャッシュフローって、今どうなんですか?」と直接聞いてしまうのが早いと思います。これによりEMとしての技術投資や組織投資の提案の通し方、取るべき戦略の方向性が変わってきます。
そして次に、先行投資。キャッシュフローが厳しい時でも守りに全振りせず、種まきを止めないこと。健全な時であれば、好循環を生むための投資をより強く提案することがキャッシュを最大化するチャンスにつながります。
最後に、経営の言葉で提案することです。経営層に対し、個々のミクロな技術投資の正しさを引き合いに説得するのではなく、会社全体を見渡すマクロな目で投資の必要性を語ることが大事です。
この3点を押さえることが経営・会計・技術をつなぐ鍵となると信じています。


